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祭りをふるさとの依代に、変わらない留守番役

酒井 雅之さん / 丹助商店 店主(四代目)、宗像神社氏子青年会 顧問
昭和43年6月生まれ 寄居町出身・在住
高校卒業後、米穀卸問屋に勤務。十数年前に取引先の米穀小売店に転職、その後実家でも米穀小売店を経営し現在に至る。 26歳~消防団所属(16年間活動) 19歳から祭囃子伝承会指導者補助となり、28歳で指導者となる。 また、2つの地区で「笛」の指導なども担い、現在に至る。

お米との出会いを通じて得た財産

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- はじめに、酒井さんが四代目店主を務められている「丹助商店」について、少しお聞きできますか?

うちの屋号は確か、明治19年だったかな、ひいお爺ちゃんが今のところで商売を始めて、そこからここに移り住んで、うちはずっと商売だね。
当初は、荒物雑貨店として色々扱ってたんだけど、親がいなくなって家を建て替えるのと同時に今の形態で、米屋さんにして。

それまでも、熊谷の米問屋さんに20年間ぐらいずっと務めてて、今は嵐山町の米屋に転職したんだけど、この30年くらいはずっとお米の業界にいて、営業で県北をあちこち、隅から隅まで回ってました。

- 最初は、米問屋さんでお仕事を

高校が熊谷で、地元の米問屋さんに就職したんだけど、その問屋さんが、牛屋さんといって、酪農家の飼料も扱ってたんですよ。
だから、お米の営業もしたけど、配達では、牛屋さんとか、豆腐屋さんとか、酒屋さんとか、いろんな業種に携われてたかな。

熊谷でも深谷でも、お客さんのところに集金や配達をして、お茶をもらって、当時は戦時中の話とか、世間話を聞きながら、お父さんみたいな商店主に怒られながら、勉強させてもらったね。

- 濃いつながりが、お客さんとの間にあったんですね。

最初は怒られながら、様子見ながら行ってたけど、何回も行っているうちに色んな話もしてもらえるようになって、今の糧にはなってるかな。

地域の話も聞けたから、色んな角度から商売を通じて見れたかね。
それが、今の地域での活動の財産になってる気はします。

地域に根ざす米屋の姿

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- お米に携わり続けて、ご自身もお米屋さんとしてお店を再スタートさせたのには、やはりそこにやりがいがあったのでしょうか?

高校卒業してからずっと携わってると、ある程度知識もつくし、入った当時は、研修とか社員旅行で、秋田、山形、新潟とか産地に行かせてもらって、昔の米屋さんの知識とかノウハウを学んだり、現場で知識は増えたからね。

本当は、経理部門に入るはずだったんだけど(笑)入社したら営業に行くことになっちゃって、「3~4年したら、経理に戻すかんね。」って言われながら、結局そのまま続いちゃってて…逆にその方が良かったのかな。
もともと、自分の家も商売やってたから、そこに対して抵抗はなかったし、なんだかんだ、そこに携わってきちゃったからね。

- なるべくして、という感じがしますね。

あとは、昔、米屋の組合があって、冬になると本庄、児玉、熊谷とか周辺地域と一緒に産業祭に出てたんだよ。
大きい店は、売出しをやったりもしてたから、毎週手伝いに行ったりとか、イベントに参加したりとかしてて。

- イベントが多い業界だったのですか?

米屋が地域密着だったんかな。
主食ってこともあるし、昔なんかは配給があって、米屋から米が来るって言うんで、余計地域の人とつながりが深かったから、年に1回売り出しやると、地域の人にチラシ撒いて、遊びに来てもらう感覚でやっていたから。

師匠から受け継いだ太鼓を、子どもたちに

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- イベントという点では、酒井さんは町のお祭りに深く関わられていますが、きっかけは?

自分が生まれた時にはもうお祭りがあったんだけど、小さい頃、誰も教えてくれないからって、子どもたちだけで遊びながら太鼓をやってたんだよね。
そしたら、小学校5年生の時に、うちの地区に伝承会というのができて、おっかないお爺さん先生に太鼓や笛を教えてもらって。(笑)

ずっと続けてたけど、高校以降は部活もあって忙しかったから、本番だけ顔出したりしていて、でも、お爺さん先生だったから、自分も容易じゃないってことで、25歳くらいの時に「どうしても、お前やってくれ」と頼まれたんで、それからここで子どもに太鼓を教え始めるようになって。
師匠が教えてた姿を思い出しながら、教えてもう25年くらい経つんかね。

- 小さい頃から、ずっと太鼓を叩き続けているんですね。太鼓の先生を受け継いで、大変なことはありましたか?

俺が戻った時には、生徒も減ってて15人くらいしかいなくて、太鼓も結構いい加減になってたんで、まずいなあ、と。
当時は、小学校4年生以上しか教われなかったんだけど、1年生から呼ぼう、と声をかけたら40人くらい集まってくれて、汗だくでぎゅうぎゅうになって練習したね。

主に、秋祭りと水天宮祭で、毎年お祭りの10日前から太鼓の練習をして、笛はいっぺんに教えきらないので、12月から5ヶ月間、毎週土曜日に練習会をやって、中には途中で脱落しちゃう子もいるけど、そういう子たちも大きくなると、太鼓やったり、いろんな手伝いをしに来てくれたりするので。
それが、また、楽しみなんだよ。

残った人の使命としての留守番役

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- 成人した地元の若い方と話していても、小さい頃に毎年お祭りに参加してた思い出は、今でもすごく覚えているという話を聞きます。

やっぱり体に染み付いてるから、久しぶりに来て、突然「叩いてみ!」って言っても叩けるんだよね。
1年に1回でもね、1日だけでも里帰りできる時に顔出してくれれば。
その想いだけだよ、変な言い方かもしれないけど、自分は留守番だと思ってるから。

- 「留守番」というのは?

同級生も皆、田舎から出ちゃってるでしょ。
でも、同窓会は定期的にあって、そういう人たちが「寄居に帰って来た時には…」っていう話をしてくれると、やっぱり残った人は何かやらなくちゃかな、って。
何かやってて良かったなというのは、そこに出るから。
自分は、お留守番で、こういう役目なんだというのも、考えてるよ。

- 寄居に帰ってくる人たちを、あたたかく迎えるための留守番役。

だから、教え子の中学生とっ捕まえて、LINE教えてもらうの。(笑)
高校生になると皆どうしてるかわからないから、横のつながりで招待してもらって、グループ作って。
それで読んでても、既読スルーだがね、みんな。(笑)
でも、見てるからさ、見てるんならわかってるや、と思って。
祭りの日が空いてれば、来るだろう、と。

お祭りの記憶がつなげる想い

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- 地元の先生から連絡があれば、今年のお祭りは帰ろうかな、って思う子もいますよね。

この間も、お囃子が好きな若い子が祭りに来てて、「お神輿なんでやんないん?」って言ったら、「興味ないから」って。
で、「水天宮祭、なんで河原まで見に来ないん?」って言ったら、「花火、家で見れるから」とかって言うんだよ。
でも、祭りには来るから「なんで来るん?」って言ったら、「笛が好きだから」って、まあそれはそれでいいんかな、と思って。

- ちゃんとお祭りには来るんですもんね。

しかも、ただ見に来るんじゃなくて、笛を持って吹きに来るから、何かの時に顔出してくれれば、それがつながりになるし、もう少し大人になって、何か町のことを考えたいってなれば、残ってくれるかもしれないから。
自分も考えれば、20歳くらいって遊ぶことばっかで、周りから色々言われたら面倒くさかったもん。(笑)

- お祭りに対する想いと、この町に在り続けるお祭りの意義みたいなものを感じます。

俺にとって、お祭りがただのイベントじゃないって感じたのは、おばあちゃんの影響が大きくて。
小さい頃、お祭りの日になると、鳳輦(ほうれん)という神様が乗った神輿が、他の神輿を引き連れて出てくるんだけど、自分の家が表通りで商売してたもんだから、それが通る時に、必ずおばあちゃんが頭下げて手を合わせてたんだよ。
だから、お祭りっていうと、俺はそのイメージが1番強いの。

今は、「真剣な遊び」っていう感じのお祭りは色々あるけど、俺の中で、根本のイメージとしては、それが強いんだよね。
神様あっての、というか、感謝の気持ちというか、何言われるわけじゃないんだけども。

- 今でも、記憶に色濃く残っているのですね。

子供の頃、風邪引いて、お神輿を2階の部屋から見てたら、町のおっちゃんに「てめぇ、降りてこい!」って怒られたことあるんだよ。(笑)
やっぱり昔の人は、神様は上から覗くもんじゃないっていう考えがあるから、未だに、お神輿っていうのはそういうもんなんだっていうイメージが、ね。
小さい時に怒られた記憶っていうのは、大切だね。(笑)

寄居町の伝統の祭りを今日に残すまで

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- 酒井さんが顧問を務める宗像神社氏子青年会」は、寄居町にある祭文化の伝統を継承し、地域を活性化する活動を行っていると伺いましたが、氏子青年会が出来るまでの経緯をお聞きしてもいいですか?

きっかけは、栄町という地域で子どもが減っていて、神輿を担げる子どももいなくなってくるということで、5年、10年後考えた時に、今から何かやらないと駄目ですよね、となって。

もともと、地域のお祭りには皆携わっていたけど、「何かしたい」という感じで、「何をしよう?」という感じではなかったから。
「何かやってこう」ということで、「子供神輿」が始まったんだよね。

そこには、自分たちが小学生の時に、手作り神輿を学校でやってたことも背景にあるんですよ。
巡り合わせなんかなあ、手作りの箱に、花とか飾り付けて、30騎くらい集まって、各地区ごとに風呂敷で作った半纏着て、ワッショイワッショイやったんだよね。

それを、当時の若い世代もやってたから、「子供神輿」やるってなった時に共通の思い出があって、イメージもしやすかった。
飲み屋の2階に毎週集まって、「あれやるべ、これやるべ」って言うんで、もう勢いだよね。

- 「何かやってこう」がどんどん形に、楽しそうです。

1年目は、4騎の神輿を出したんだけど、当時、中には、「有志の若手が勝手にやっている」って言う人たちもいたので、子どもたちにジュースを買うお金をなんとかするところから始まったんだよ。

「じゃあ、自分たちでやるべ」って手ぬぐいを作って、高いけど、1本1000円で地元の人に寄付金的に買ってもらって、それでなんとかやりくりしたんだけど、次の年はやっぱりお金が必要だから、町とか商工会と一緒にやらせてくださいとお願いしたりして。

- 町の理解や協力も得ながら、少しずつ活動を大きくされてきたんですね。

毎年、「今年は子どものために何やる?」という話から始まるから、目的はブレずにやってこれてるかな。

最近では、少しずつ予算も安定してきたので、災害があった地域への義援金にしたり、地元で子どもの養育支援をやってる施設に寄付したりさせてもらっているんだけど、慈善活動だけはちゃんと続けてこうっていうんで。

- 地元の子どもと一緒にやっている活動の資金が、地元の子どものために使われているとは、素敵です。

この活動を始めて、今年で12年目になるんだけど、最初は氏子青年会ではなくて、「寄居町の伝統文化を楽しむ会」という名前だったの。

頭に寄居町と付けたのは、中心市街地の地区だけでなく、寄居町全体の地域が一緒になって、町の伝統文化を活性化させるような交流をしていこうという考えで。
それを、5~6年活動して、きちんとした組織を作ろうと決まったタイミングで、今の「宗像神社氏子青年会」という名前になりました。

それぞれの地域にお神輿やお祭りがあるから、市街地だけじゃなくって、お互いに交流しながら、いい刺激になればいいなと思うんだよね。

祭りが、ふるさとと誰かをつなぐツールになれば

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- 酒井さんのお祭りに対する情熱は、どこから来るのでしょうか?

「寄居」って言うと、なぜか「市街地だ」となってしまうんだよね。
もちろん合併もあったし、昔は仕方ないのかもしれないけど、とにかく気持ちの統一というか、寄居町を一つにするために、お祭りはそのツールとして使えるんじゃないかな、と思うんだよね。

自分が若い時は、お祭りが観光っていうイメージもあったんだよ。
でも、今は、お祭りは一つの「依代」って言うのかな。
自分のふるさとのイメージが、お祭りになってもらいたいというのがあるんだよね。

- お祭りが寄居町をつなぐ、関わり代になっていくんですね。

1年に1回、ふるさとに帰る口実にもなるがね。
帰ってくる目的が、お祭りだったらいいなと思うし、ちょっとでも祭りが有名になったり、賑やかになって、家族や友達を連れて帰ってこようと思った時に、俺たちがウェルカムの姿勢でいれば和気あいあいになるし、雰囲気が違えば1回きりにもなってしまうし。
どう受け入れるかで、変わると思うの。

そうなっていけば、自然に町も盛り上がると思うし、その役目はやっぱり残った人じゃないと、なかなか、ね。
って、最近自分に言い聞かせながらやってるとこあるよ。(笑)

- 帰って来る場所に、酒井さんみたいな方がいるって大事だな、って改めて思います。

ちなみに、これだけ祭りのことを語ったけど、俺の趣味はプロレスだからね。(笑)
「To be continued」ということで…