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そのときわたしたちは-その9

長女と次女を連れて帰国する話の前に、当時の街の様子を書いておこうと思う。どうしてデリバリーとネットスーパーが頼みの綱だったかもわかってもらえると思う。


上海市は面積約6400平米、東京都の約3倍ある。私が初めてやってきた20数年前はまだ上海市ではなかった近隣の県を次々に合併してものすごく大きくなっていた。人口は約2500万人と言われている。世界経済の中心の一つに成長した上海は上海戸籍でない者や外国人も多く住んでおり、住居登録をしない短期在住者も多いので正確な数が把握できないと言われている。この人口は東京都と神奈川県の人口を足した数より多いらしい。

市内には工業地区もあり農地も多く、養豚養鶏もしているので、上海市に出入り制限をかけても食料品をはじめとした生活物資に困ることはなかった。旧正月明けにスーパーにものが全くないという報道が日本でもされていたけれど、例年旧正月中は物流が止まるのでスーパーの品物は品薄になるのが普通だ。だから、中国人はもちろん長年住んでいる人はさほど動揺していなかった。もちろん買い占めなどもなかった。

今回の画像は旧正月明けの日系スーパーの店内。

空いている棚はあるが全くないということはない。


また、中国国内は数年前からネットショッピングが充実しており、外出規制を機にネットスーパーとフードデリバリーがさらに充実するようになった。

ネットスーパーはアプリで注文したら最短30分で配達される。デリバリーも追跡システムがついていて、自分のオーダーが今どこにあるか一目でわかる。何よりこれらのサービスは、支払いシステムと携帯番号を連携させて必要な個人情報を入力すれば、一言も喋らず注文から受け取りまで可能なので、外国人にも利用しやすい。

表示は中国語だけれど、パターンが決まっているし必ず画像がついている。翻訳アプリも併用すれば大抵困らない。タクシーなどもスマホアプリで同様に利用できるので、上海に数年住んでも一切中国語を使わない、という人も多い。


ネットショップはロックダウンしている区域を除けば配達可能だったので、これらを使えばさらに物資の調達に困ることはなかった。一時期市場から消えたマスクや消毒液も、2月も半ばを過ぎると徐々に手に入るようになったし、品薄の時は会社から支給するようにお達しがあったおかげで、少量だが支給された。我が家はベトナム製の買い置きがあったけれど。

一部の輸入品は途絶えたけれど、うちは我慢のできる範囲だった。


こんな風に長々と説明したのは、当時日本で何度も「物資が無くてパニックになる市民」「ゴーストタウンと化した街」と報道されていたせいだ。ゴーストタウンの街と言われてテレビに映し出されたのが近所の見知ったアパートで、あそこに住んでいるマスコミの方が自分の家を撮影したのかな?と思うと少し笑えた。2月の寒い時期に外出制限されているのにわざわざ用もなく出かける人は多くないだろう。平日は在宅勤務の人もいるし、オンライン授業を受けている人もいるのだから、平日の日中の様子を映し出すのはおかしなことだと思った。

けれどもこういう報道を見て私の両親が心配して連絡してくるのだ。

そんなところにいないで早く日本に戻ってきなさい、子どもたちは無事なの?辛い目にあってるんじゃないの?中国はみんな感染して病院もパンクしてひどい状態だっていうじゃないの。

そんなことないです、ええ大丈夫、ちゃんと食料も手に入るし出前もできる。家から出るのがちょっと大変なだけ。子供達も元気です。

テレビを全て信じる老人に納得してもらうのは結構大変だ。


私たちの出発が近くなると、人数制限をして出社することが可能になった。基本は在宅だけれど、出社できる人間でローテーションを決めて交代で出社する事になったが、夫はこちらにいる唯一の日本人ということで毎日出社する事になったという。必要なものが全部オフィスにあるし、皆いないし、と夫。

でも、皆帰っちゃったらお昼ご飯はどうしよう?と言う。

レストランは未だに休業中、ビルの規定で外部の人間の立ち入りが禁止されていた。そして夫はお茶漬けの素を使ってお茶漬けを作ることを料理という人。その上エアロゾル感染防止のため、ビル内の空調は全て切られていた。2月の上海はなかなかに寒い。

私は電気で加熱できる弁当箱をネットで注文し、いない間約3週間分の作り置きを始めた。弁当箱に入れれば済むように小分けして、ラベルを書いて種類別に冷凍庫に並べて入れていく。冷凍ご飯も一緒に。正直諸々の準備の中で、この作業が一番大変だった。お留守番の猫の準備の方が百万倍マシ。作り置きの合間に帰国中の滞在先の手配。日本に帰る家がないのでマンスリーを借りる。きちんと中国から帰るが問題ないかも確認して。幸い毎回利用しているところだったせいか特に問題もなく手続きができた。

つきあいで一緒に帰る次女だって、学校の先生たちにその旨を連絡したり、持ち帰る資料を準備しなくてはいけなかった。

楽器は日本の家では演奏できないので音楽の宿題はペーパーにしてください、◯日と◯日は移動しているので授業に参加できません、パソコンは持って帰ります。

慌ただしく準備をする中で、次女が聞いてきた。

おかあさん、私おともだちに会える?

私が何も言わなくても、子どもたちの間でも日本に帰った時のいじめについて話題になっているようだった。

みんなきっと今は会いたくないよね、私ももし自分のせいで友達が病気になったら嫌だ。怖い。

そうだね。自分が怖くて嫌だと思うなら、今回はやめておいた方がいいかも。でも、誰かどうしても会いたい子がいたら、その子にだけ一回連絡してみたら?

ただつきあいで帰って、ずっとマンスリーの狭い部屋でオンライン授業だけを受ける次女の姿を想像したらあまりにかわいそうで私はそう言った。お返事が来なかったらあきらめればいいよ。

長女は長女で帰ってきて2ヶ月も経つと受験の時に培った自立心は跡形もなく消え、荷物をまとめることさえしない。もう二度と戻って来られないと思って、必要なものは全部持っていきなさい。夏のものも冬のものもたまにしか使わないものでも。よく考えて。


まあ考えるわけなんてない。結局出発前日の深夜までかかって大騒ぎでとりあえずの荷物を作った。いよいよ日本に帰る。緊張してよく眠れなかった。