よりのよりどりー杭州サバイバルライフその9.How To GET母子手帳

母が連れて行ってくれた病院は、実家から一番近い総合病院だった。私が4歳の時に手術をしてからずっとお世話になっている古い病院で、米軍キャンプの真横にあって外壁は黒ずんでヒビだらけの迫力ある病院だった。4歳で入院した時は夜は怖くて怖くて、見回りにくる看護師さんが何より怖くて逃げ出したかったのを覚えている。点滴だらけで動けなかったけど…

久しぶりのその病院は一層古びて迫力を増していたけれど、産科の医師はとても優しく親切だった。私は中国の病院のカルテを見せながらいつどんな処置をしてどのように過ごしていたか説明した。私の話を聞いて医師が言った。

「わかりました、それで出産は帰国してしたいと。こちらで受け入れることはできるんだけど、一つだけ言っておくことがあります。

あなたが切迫流産の時に打っていた注射だけど、胎児に影響があるということで日本では20年前に廃止になってる薬なんだよね…」

目の前が真っ白になった。子供を助けるつもりが子供に害を及ぼすものをすすんで与えていたとは。あのまま何の手立てもなく一か八か様子を見た方が良かったのか?

顔色が変わった私を見て医師が続けた。

「胎児が女児だった場合に性器の男性化が見られるものなので、男児だったら大丈夫だからそんなに心配しないで」

その時点で5ヶ月目で、性別はまだわからなかった。でももしエコー男児と言われてもそれは薬の影響で本当は女児だったら?見分けはつくんだろうか?

医師は臓器の状態などでどちらかわかるから大丈夫だと言った。そしてエコーをとって今の状態を見た。子供はきちんと私から必要な栄養を吸い取って成長していて安心した。ろくに食べられなくても育っていてくれた。

それから帰り際に次回までに市役所で母子手帳をもらってくるように言われた。日本には約2ヶ月近くいる予定だったので、その間に必要な検査を受けておくつもりだったので、言われた通り数日後に市役所に向かった。


市役所の窓口で1時間が過ぎても私の母子手帳はもらえなかった。曰く、「日本に住んでないと発行できません」の一点張り。数ヶ月前まで日本それも同じ市に住んで住民票があったこと、帰国して里帰り出産したいことを話しても、前例がないからどうしたらいいかわからない、聞いてきます、と言って他の人に変わる。その人に同じことを初めから説明してまた同じ対応をされて…何人それを繰り返しただろうか。連れてきてくれた母は待ちきれずに帰ってしまった。終わったら電話して。

それでも私はここで諦めるわけにはいかなかった。安心して安全に子供を産むために今頑張らないと。頑としてもういいですを言わない私を見て、何人目かの男性職員が言った。

「ここに住民票を入れてくれたらすぐお渡しできるんですが…」

え?そんなこと?

住民票を入れさえすれば発行してもらえるならすぐに入れますと私は答えた。すぐに転入届を出し、念願の母子手帳が手に入った。心底ホッとした。ちなみに事前に調べた市のHPには、英語や中国語対応の母子手帳もあるとあったので中国語を希望したけれど、そんなものはないと断られた。今では当たり前のように発行してくれると聞いて安心している。

ようやく手に入れた母子手帳に、早速今までのデータを書き込んだ。母子手帳ケースなるものを買おうと思った。ようやくここまで来れたことにホッとした。ホッとしたらものすごくお腹が空いていたことに気づいた。市役所出お昼時間を挟んだので、昼食を取っていなかったことに気づいた。

それから夫が迎えにくる国慶節までは実家でダラダラと甘えて過ごした。検診も順調で、おそらく男児だろうということもわかった。7ヶ月に入った頃に杭州に戻って、9ヶ月でまた出産のために戻ってくることにした。結婚して家を出てからの実家はすでに私の部屋も無くなっていて仏間で過ごす日々で、自営業の家は24時間ひっきりなしに人が出入りして、人が来るたびに挨拶して現状を報告しなければいけない状態に疲れが出てきていた。何もなくて全く楽しくない暮らしだったけれど、やっぱり杭州のあの部屋が私の家になっていたのだった。

一旦杭州に戻る許可を医師にもらい、山のような日本食と雑誌や本を買い込み(荷物制限のない時代だった)、お土産もいっぱい買って夫が迎えに来るのを待った。育児雑誌や名付け百科なども買った。美容院に行ってパーマをかけてもらった。これで数ヶ月美容院に行けなくても何とかなるだろう。杭州に戻るのを待ち侘びている自分がおかしかった。