学問の正しさバトルをしようぜ!大学院入試編

・久しぶりに日記を書く。前回が大学院入試の直後だったので、まあまあな期間が空いている。さらに他の院の試験があり、忙しかったのもあって更新できなかった。推しは毎日更新を5年もかかしていないのに…とは思ったが、私の方は誰かから催促されている訳でもなく、ただ勝手に推しを真似て書いているだけなので、細く長く続けばいい。かれこれ私も3、4年書いているのでかなり続いている方だと思う。この内容も多分この180回のうち何回書いているだろうか。文章を書く力も考える能力も昔と変わっていないので、脳の同じ所を擦り続けている。 

・一応人生の大きめのニュースなので。国立のまあ有名な大学院に受かった。受かった瞬間は勿論喜んだし次の日くらいまではだいぶ気分がよかったのだが、その後めきめきと鬱が追い上げてきた。どうなってるんだ。TwitterやらDiscordやらに分散させてしまっているので考えをまとめなおすのにも一苦労する。自分が主体的に把握している自己像と結果が大きく乖離していく感覚がある。いわば「me」と「I」が異なる状態にあると感じているのだと思う。自分の中では、やはりぎりぎりに常に動いており、一寸先まで考えが至らない無計画で刹那的な生き方しかできない人間だと捉えている訳だが、いざ合格すると後輩なんかに「これまでどうやって勉強してきたの」とか聞かれ、まるでこつこつとやっている人間のように扱われる。実際はその場その場で瞬間的に120%くらいの力を出すが他の時間はほぼ無の状態であるに過ぎない。

・面接で「貴方の研究は当事者にとって役立つのか」「求められている研究ではない」(意訳)と言われたことが脳内を反芻している。ここで悪癖なのだが、自分の制作物に対する批判が自分の批判のように捉えられてしまう。あくまでアウトプットへの批判はモノへの評価に過ぎないと考えてもなかなか切り離せないところがある。私は大学のうちでは社会福祉学を専攻していたが、それが社会学の教授たちにとっては「論点がズレている」と捉えられたようだ。

・社会福祉学の特徴的である点は、当事者や現場に有用であるかという点が一種論文の質を決定する基準になっているところだと思う。最終的には現場に利益は還元されるべきであり、その考えには私も同意している。そのためよりよい支援とは何か?にフォーカスされている。これに対して社会学は問題の根本を「理論的に」語ることを要求する。社会学は社会福祉学の視点に立ったリサーチクエスチョンを理論的ではないと面接で述べられたが、それは果たしてあっているのだろうか?
・私としては、其々の学問で「理論的」とされる語り方は異なり、その方法は同一のコミュニティ内でしか通用しないという文化によって其々の理論的な正しさが確立されてしまっているせいだと思う。例えば自然科学では唯一の真実があるように語ることが論文において重要であり、実験者によって実験結果が異なるなんてことは許されない(はず。自然科学に精通していないので間違っていたら教えてください。)しかし社会福祉学においては、支援者・観察者によって異なる結果になる可能性は大いにある。支援者と対象者の関係の中で対象者の行う語りの内容は大きく異なるということは、インタビュー調査を行う人なら知っているだろう。では実験の再現性のない社会福祉学で得られるデータが正確性に欠けるかといえばそんな事は無いと思う。これは私がだいぶ社会構成主義に傾倒してるからかも。

・とにかく学問のジャンルが異なると正しいとされる記述の方法は変わるということ、一つの学問を専修しているとその違いに気が付きにくいことを感じた。これからは社会学にザブザブいってみて社会福祉学と両方の折り合いをつけられる研究をしていこうと思います。


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