創作とは
なんか、創作がなんなのか、知りたくなったから書くべやな。
夢ぐらい脈絡のない文章やけど。
創作とは、衝動の保存だ。
とは、私が3月に思い立った真理である。
自ら真理を呼称するとは如何なものかとも考えたが、この命題は、私の中で真理と呼称するに十分な大きさを占め、確信へと昇華して居る。
創作とは、衝動の保存である。
夜空に咲いた花を網膜に焼き付けた時、美しいものに息を飲まされた時、世界への強い眼差しさえあれば、私達の中には簡単に衝動が発生する。
衝動とは、突風と表しても良い。
つまり、或る強く印象に残るものを見て(若しくは聞いたり、触ったりして)、刹那的に大きな感情に囚われる、その大きな感情を衝動と呼ぶのである。
衝動は、その大きさが故に、刹那が故に、即座に忘れ去られることが多い。
或る時、その衝動に価値を見出して、何かに封じ込める(保存する)ことにした人間がいた。紙でもいい。歌でもいい。絵でもいい。
兎にも角にも、その行為こそが創作なのである。
しかし衝動のみから創作を作ることは、実は容易ではない。これは表現方法としての創作の種類にも左右されるが、少なくとも一定以上の体積を要する小説や楽曲などはこの事実に当てはまる。
衝動が足りないのである。
特に大量の記述量を要する小説などは、「衝動の保存」たる創作の中でも少し異質な存在と言えるだろう。
「衝動の保存」とは、言い換えれば「現実の希釈」とすることも可能だ。
例えば、美しい景色に見惚れた時、恋愛的に好きな異性が自分に笑いかけた時、誰かにとって衝動たり得る現実が発生した瞬間、創作は始まるのである。
それを、17音の日本語に収めたり、キャンバスの中へ出力したり、歌詞におこしたりする。どれを選んでも自由だ。
そして選んだのがどの創作であれ私達は、その時、現実をそれぞれ創作が要する溶媒(文字や、キャンバスや、メロディ)へと希釈しているのである。
そして、溶媒がずば抜けて多い小説はほんの少しの衝動を希釈するのには向いていないのだ。よってここで私の言う創作とは、小説を含んでいないきらいがあるだろう。
しかし、衝動のみが創作を起こすに十分な動機を担いきれないのには、溶媒と衝動の比率以外にも理由がある。
創作を呼び起こすのは、衝動だけでなく。
創作だからである。
創作が創作を生むのである。人がゲームをしているのを見ると、自分もやりたくなる、といった心理と何も変わらないが、創作意欲とは、本質的に、創作から得られるものなのだ。
創作の原料とは衝動と、創作なのである。
創作が衝動の保存であることは、すでに述べた通りだ。せっかく大きな感情をその心に宿したのなら、自然に消滅させるのは惜しい。感情にエネルギーはないかもしれないが、それを保存することで別の人間の心に衝動を起こさせうる力がある。
それはとても素晴らしいことではないだろうか。
まるで実体とは別の、虚像のエネルギーが、しかし確かに存在しているかのようである。
世界を強く見続ければ、衝動は生まれる。
それを、何かの媒体に保存、もしくは何かの溶媒へと溶かし込むことが、創作の本質であり、原点である。
そう私は考えている。
ことにする。
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