三年弱続けた連続投稿が途切れたたら・・・

あと2ヶ月ほどで、丸三年noteに連続投稿を続けていた事になる。もっとも、noteの記録上は、予約投稿日の設定間違いで数回仕切り直しになっているが、記事そのものは書いていたので、実質として三年弱毎日記事を書いていた。

そのはずだったのだが、ちょっとした事情で途切れた。
一番直接的な原因は、1週間ほど寝込んだ事だが(本当に寝ていた。)、その気になればパソコンに齧り付いて、たとえ「つぶやき」でもしようとすればできたはずだ。

だが、どうでも良くなって、ひたすら寝ていた。
いわゆる心の緊張の糸が、プツンと切れた。

さて、そうなると、再度記事を書くにも、そもそもnoteになぜ記事を書くのか、書く事は自分にとって、どんな意味があるのかを考えざるを得なくなった。

さらには、自分の生活、生きる方針までも見直す必要が出てきた。毎日一定時間を費やして、noteに記事を書くという、生活の中でのnoteの位置付けは何かということだ。

私が寝込んだ、ちょうどその頃に五十年近く、親交があった空手の師匠が亡くなった。
私より四年ほど若い。

殺しても死なないと思えるような人だったので驚いた。
ただ、亡くなる1週間ほど前に撮られたYouTubeの動画に、自分には時間がない、というような言葉があった。

これが、死期を悟ったが故の言葉かというと、そうではないと思う。
しかし、考えさせられた。

自分はどうであろうか。
私は、自分が死にそうな気は、まだしていない。
そもそも、真人間の生き方として、死神との戦いを措定しているので、そんな簡単には死ねない。

だが、意味のないことを漫然とやっている、そんなことをやっている時間は、それこそない。
意味のないことを漫然とやって、時間を過ごすのは、ある意味死神との戦いに負けることでもあると思っている。

さて、そうなると、どうすべきか。
ちょっと考え込んだ。

再度、何を目指すのか、目指したいのか自問した。
また、目指すとしてもその戦略はどうするか。

行き当たりばったりというわけにはいかない。
その戦略の上にのった、noteとの付き合いであるべきだ。
そうでないと、また、いずれ心の糸が切れる。

なんて考え出したら、身動きが取れなくなった。
これもまずい。

戦略なき戦いは無謀であり無責任だが、動かないで戦いに勝てるものではない。

ということで、まず、大体の戦略を考え、その中でのnoteの位置付けをこれまた大体決めた。

あとは、実践の中で軌道修正、位置付けの変更をやっていこう。

そういうわけで、再度noteに参戦であります。




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