見出し画像

在日コリアンと名前

  先日、KEY大阪では「在日コリアンと名前」というテーマで学習会を行いました。
 自分にとっての名前、社会について、改めて考える機会になりました。

 今年の6月に日本籍の在日コリアンに「朝鮮語のあだ名」を強要しているとして、保守系の議員が東大阪市内の民族学級設置校を抗議するとともに,Twitter上で校名をあげて批判を繰り返すといったことがありました。
 また、産経新聞も民族学級を批判的に取り上げ、ネット上ではこれに同調するような声がたくさん上がり、実際に心無い人が学校現場へ抗議の電話をしたり、現場の緊張が高まるといった事態が起きています。
 学習会は、このことをきっかけに、改めて在日コリアンのメンバーと名前について話したいと考え、開かれました。

 1972年に、生徒からの声にこたえる形で長橋小学校に民族学級が開設された時期あたりに、『「本名」(民族名)を呼び名のる』運動が本格的に始まったとされています。
 この運動の過程で、単に「本名」を呼ぶだけでなく、当事者が「本名」で生活する困難さに、周囲の日本人らがどのように向き合うべきかも、常に問われたと言います。
 そして、日本人の在日や韓国朝鮮へのまなざしを変えていくための歴史教育や反差別教育が必要と考え、歴史や人権の教材開発もなされていったということです。
 また、当時から、本人や保護者の戸惑いや反発はあり、そこで、なぜ「本名」を呼び名のることが大切なのかについて、現場では対話や行動が求められました。

 学習会の後半では、時代に進むにつれ、日本籍「帰化」者、ダブルの存在など、在日コリアンが質的に多様化し、民族名=本名、日本名=通名という概念も変化してきているということが共有されました。
 そして、日本籍でありながら、民族名を本名として活躍している人、日本籍とのダブルの人で、民族名で活躍している人、名前に日本とコリアの両方の属性を込めている人、そして日本国籍で、日本名を使いながらもコリアルーツであることを明かしている人が紹介されました。
 学習会を通じて、自分自身が「民族名」を名乗り生活している意味や理由を改めて振り返ることができました。

 僕自身は、呼ばれることで、自分の名前に愛着を持つようになったこと。それがベースにありつつも、意図としては、同質的な日本社会への抵抗意識から、あえて「民族名」を名乗っています。
 物心ついたころから、「民族名」で生活していましたが、家の中では「日本名」で呼ばれ、外では苗字で呼ばれていたため、下の名前には、「民族名」に違和感がありました。
 しかし、KEYに通ってからは、下の名前で呼ばれ、それが当たり前となり、今ではその違和感が逆転している感じさえします。
 また、「民族名」で呼ばれ続けたことが、情緒的なところで、在日コリアンとして自分自身をアイデンティファイするのに作用した、とも思います。

 ここではあえて「民族名」と書きましたが、僕自身は「本名」、「通名」という呼称が実は、しっくりきます。
まず、使い慣れているというのがありますが、戦前の創氏改名しかり、戦後においても被差別体験により、名前を奪われてきた在日コリアンの歴史を考えると、奪われたものを取り戻すという意味で、「本名」という呼称がしっくりくるというのがあります。

 学習会では、参加者から普段使用する名前や、その理由、名前をめぐる経験、どう呼ばれたいかなど、様々な話を聞くことができました。
 KEYでは、メンバー間で「民族名」で呼び合うことが一般的になっていますが、外の世界ではそうではなく、日本名で暮らす人、ダブルの日本籍、「帰化」して日本名が本名である人も多いです。
 属性から「民族名」に違和感を持つとか、名前がいわゆる「日本風」につけられたり等の理由から、音として、本名に愛着が持てない等の本音も語られ、他者への想像力が欠けると、失いかねない、自分とは違う価値観にも出会い直せた気がします。
 在日コリアンの質的多様化にあって、「本名」、「通名」という呼称が帯びる、善悪・優劣関係は、時として暴力や疎外感を生み出すことも踏まえないといけないことを、僕は自分に問わないといけないとも思いました。
 そして、総じて自分が使いたい名前を使い、呼ばれたい名前で呼ばれることが基本、というのは、メンバー間の共通認識にありました。

 人は一般的に生まれた時点で、名前は選べません。
しかし、成長過程で、意識すれば、選択できる環境があります。
日本では、制限はあるものの、法的にも強要されない自由があったり、変更ができないわけではありません。
 しかし、在日コリアンにとっての名前の選択は、公平な判断条件が整った環境で行われることから程遠い現状があると僕には感じられます。
 韓国朝鮮籍から日本国籍への「帰化」者は毎年1万人ほど存在し、「通名」を選択する在日コリアンは9割ほどと言われ、この状況からも、決して公平な判断、選択が行われているとは思えません。
 

 「民族名」で生活していると、「いつ韓国から来た?」や「どおりで韓国語が上手ですね」、「日本で生まれ育っているのになぜ日本籍に変えないのか?」、「日本人と一緒ですね」等、日常の中で無知や偏見に基づく小さな差別や疎外感は、いつになっても付きまといます。
 結婚となると、相手に、あるいはその親や親戚に、反対され、帰化を強いられたり破談になるという話が、適齢期と言われる30代前後の人たちから聞くことが今もよくある話です。
 賃貸契約しようものなら、外国籍という理由で、あり得ない条件を提示されたり、就職の足かせになる話も、まだまだ後を絶ちません。
加えて、多くの在日コリアンは、ルーツを学ぶ環境が、限られているという現実があり、どうするべきかを考える契機や発想自体も持てる状況ではありません。
 ぱっと思いつくだけでも、これだけ挙げられます。

 この状況では、あえて、コリアン国籍を保持し、民族名を選択するのは「負け試合」に等しい。
 ルーツを尊重する環境が極めて乏しいということです。

 まずは、公平な判断ができる環境づくりを、考え、行動することが重要だと思います。
 そういう意味で、普段「日本名」で生活しているのであれば、まずは、一度でも「民族名」で呼ばれる経験は大切だと思います。
 そして「民族名」を負い目なく使える環境を整えること、そのために在日コリアン同士のつながりと、ピア教育の保障、日本社会における歴史教育や反差別教育の実践が必要と考えます。
 加えて、在日コリアン社会と日本社会との交流というのも、深いレベルで判断をするためにも欠かせません。
 そうして初めて、公平な判断環境の下、様々な思考や葛藤を経ることができ、豊かさが込められた名前の使用が実現されると考えます。
こういった環境を持つ社会を作っていけるよう、これからも、自分なりに努力していきたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?