記憶を連歌する— 出会って、触れて、すれ違うために
日時:12月9日
時間:13時開場/13時15〜16時15分(途中休憩15分)
場所:寺子屋大吉 (世田谷区北沢5-5-3)人数:12名
参加費:3,000円
申込先 nonsavoir@gmail.com
件名に「記憶の連歌」と書いてください。
「その話で思い出したのですが-」と誰かの話した記憶を引き取って話す人の多さに驚いた。今春の初めての試みでのことだ。
連歌みたいに(連歌やったことないけど)他の人と連ねて話していく中で、固結びみたいになってほどけなくなった記憶をときほぐすことはできないかな?
という試みで始めたのだけど、なんだかとてもいい流れができたと思った。
自分の話したことが他人に引き取られて、「その話で思い出したのだけど––」とズレていく。話題を奪うのではなくズレるという断線が、自分の内部で完結している記憶の境界を揺らがせることになったみたいだ。
記憶について考える機会が多い。
というのは、たいていの場合、人は今この場のことを話しているつもりでも、過去や未来に思いを馳せたり(「あのとき~すればよかった」「もし~が起きたらどうしよう」)、あるいは確実なことを言おうとして、脳内で検索した結果の出来事を述べるだけになっていたりするから。ぜんぶ古びた記憶だ。
そうなると、たとえば「自分を見つめる」だとか「向き合う」といっても、過去をほじくり返すことになるばかりで、それと省みることの違いが感覚的にわからなくなってしまってもおかしくない。
・過去をほじくり返すのではなく、現在を生きるために記憶を紡ぎ直す。あるいは綻ばせる。
・過去に原因を探るのではなく、現在にフォーカスするために、かつてについて語り直す。
「記憶の連歌」では、誰かの話に自分の経験が入り混じり、「あり得たかもしれない現在」と「そうではなかったかもしれない過去」がめぐっていく。大きな数珠をぐるっと送っていくような、そんな感じ。
「出会って、触れて、すれ違うために」と銘打ったけれど、これは僕が畏怖している方の発言で、それを聞いたときに「あー、なるほど」と深い得心があったので、ここに使わせてもらった。
「出会って」とは、たまたまこの場にあなたと居合わせたこと。
「触れて」とは相手の話を聞いて、あるいは触発され何か口にすること。
「すれ違う」とは、これが自分の現実だという思いがゆらいだり、そこから逸れていくこと。
どういう成り行きになるかは、その日にならないとわからない。
だけど、これまで僕がやってきた「その人の話をその人の話として聞く」「ジャッジしない」を一見すると違うようでいながら、より深いところで実践していく場になるのではないかと思っている。
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