お笑いにうんざり
神戸に住んでいた頃、藤本義一や上岡龍太郎、やしきたかじんといった“大阪帝国主義者”から笑いの効能についてさんざん聞かされた。
いわく笑いは反権力なのだと。
そうした文化と呼べるかどうかもわからない雰囲気を背景に横山ノックが、橋下徹以下略が府知事になった。
そんな高説とは無縁だろうと思っていた松本人志までが『遺書』以降、お笑いについて自己言及するようになり、あまつさえ論めいた論で政治について言及するようになった。だからツィッターなどはしなければよかったのだ。
そこで僕は桑田佳祐の「吉田拓郎の唄」を思う。
長い旅が終わり 安らかに眠れよ
おまえの描いた詩は俺を不良くさせた
涙の辛さも教えずに 一人男が死ぬ
河の流れを変えて 自分も呑み込まれ
関西圏では自分を卑下して笑いをとる手法が定番だ。そうして自分を下に置きつつ「王様は裸だ」と相手を笑いのめす。
これは権力者に対する庶民の知恵であり、笑いの凄みなのだ。関西の文化人や芸人たちは折に触れてそう言っていた。だが、本当にそうなのだろうか。
相手や自分を上げたり下げたりすることは「卑屈かつ傲慢である」のとどう違うのか?
それが庶民の知恵だとしたら、たんに「自分とは一体何者であるのか?」「発言の意図は何か?」を直視しないでいるだけではないか。
彼らのいう笑いはいまや真摯さの拒否だ。どれほど挑戦的だったり際どい笑いであったとしても、マジョリティであることに胡座をかいた発言でしかない。そう思うようになっている。
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