緑が青に見えるとき

 「目の裏にそいつは住んでいる」という文句が口を吐いて出た。そう言葉にしてみて、それを口にしたのは自分だが、まるで自分ではないような感じがした。
 私はいま大きなガラス窓を木材の枠にはめ込んだ引き戸ごしに庭を見ている。夏の酷い暑さは秋を炙るようにしてまだ去りきっていない。昼まで降った雨は水分をたっぷり含んだ空気を庭の緑の上に漂わせていた。
 

 屋敷に足を踏み入れたときから訪問者の足音は消える。普段なら無造作に路面にかかとを打ちつけ、足を引きずり、手も足も気の抜けたままの野放図さで、てんでバラバラな調子で歩こうと、一向に気にならない人であっても、腰のあたりに届く程度の高さの対に並んだ石の門柱を超え、数歩進んで木の扉を引き、石の敷かれた玄関で靴を脱ぎ、上がり框に足をのせてしまってからは、普段の通りには身体が動かなくなる。動けなくなる。
 あまりにしんと静まった雰囲気に気圧されてかしこまったから、要は空気を察知して萎縮を身体に命じたからではなく、そのように身体がなってしまう。重力が明らかに異なる。慎重になってしまう。

 慎重という語には重力と同じく「重」が用いられている。慎重とは軽々しく振る舞わないことを意味する。だが、ここでは重々しくあるように気をつけるのではなく、軽々しく浮かなくなるのだ。気が十分に沈み、穏やかでありながら瞬発的に動ける感じ。そうした重さはどこからやってくるかといえば、屋敷からだ。

 威圧的なつくりはしていない。築50年は経っている日本家屋は、見た目は簡素だが、素人目にも贅を尽くした造作だとわかる。今どきでは見られない厚い木材がふんだんに使われ、建具に始まり何気なく置かれた花瓶や舶来であろうタペストリー、箪笥、銅を張った洗面など、どれも品があり、それだけに高級なものであろうと思われても、亡くなった屋敷の主のそれでも今なおここにとどまっていると思わされてしまう存在感に燻されたせいで、高価な調度品という主張が消え、静かにそれぞれの場所で息をしている。

 ここに足を踏み入れた人たちは、アスファルトに靴底を擦り付けて響く音とは違う、畳の表を摩ってシャッという擦り足の奏でる音を響かせる。そうして気づく。耳慣れた摺り足のだらりとした音は、重力に委ねきった弛緩がもたらすもので、比べてここでの摺り足は我が身の受け止めた重力のままに地に接しているのだと。畳が軽やかに鳴るのは、足裏が接しながらも浮いているからだ。ここではギリギリまで地に近いところを歩くようになる。もしも慎重さが単に重々しい足取りとなるとすれば、軽快さを失っているからだ。軽みがないと足は前へ運ばれない。

 部屋の片側に御簾が下され、庭に面したところは御簾が掲げられている。正座の姿勢になって目に映る庭の景色は、立っているときとまるで違う。

「目の裏にそいつは住んでいる」と自分が言ったとき、私は見ているということが物理的な行為と違う層で起きているのだとわからされる。視力検査で測られるような数値として理解された「見ている」ではない。
 この静かな屋敷では、私は亡くなった屋敷の主と共に見ている。会ったことはない。だが、ここで暮らしていた時間が終わることなく続いているのであれば、私はここでその主や屋敷の記憶と共に見ている。
 私はしばらく目を閉じて静かにする。内側へ目を向ける。屋敷にいても外の世界の出来事、これからの予定やしなくてはいけないこと。気にかかっていることなどにわずかでも目を向けると心がざわめく。ざわめきを抑えようとすると余計に乱れる。
 何かをしようとする意識の働きが普段の暮らしの真ん中に腰を据えている。腰を据えるといった慣用句と裏腹に、意識の働きは足腰の確かさをもたらすわけではなく、むしろ落ち着きをなくしすぐに不安になる方向へと心を走らせる。意識で心をなんとかするという道筋がそもそも間違っている。
 だからどうすればいいのか?というおしゃべりに主導権を与えることを「考える」と呼びたがるが、それは考えるではないだろう。妄念と名付けた方がいいのではないか。そこにおいて、もしするべきことがあるとすれば、それは静かに座って落ち着き、気を沈める以外にない。

 しばらくして目を開ける。見ようとするまでもなく外の世界が見えてくる。庭の緑が静かに目に映った。その途端、緑が青に観えた。おっと思わず声が出る。それが緑であることはわかっていても、明らかに青に観えた。その青は空の青と同じではない。視覚や視力といった機能に基づく外界の識別の仕方からすれば、それは緑である。だが紛れもなく青をしていた。
 なるほどと合点がいく。なぜ信号機の緑を青と呼び、緑の繁るさまを「青々とした」と表すのか。緑を青と呼ぶ感性がそう呼ばせている。気を沈めて心を落ち着かせたときに出会える感性というものがあり、そのとき目は緑を青に観る。
 この島は放っておけば草木が繁茂してしまう。水はあちこちで湧き、空気は湿っている。横たわる空気の水の含みが色を尖らせることなく滲ませ、くすませる。燦々と陽光に映える色合いはない。だが陰光のもとで光る風情はある。風情をもたらす風土がこの島の地べたをなしている。そこに足を置き擦って歩くとき、緑は青に観えるときが訪れる。


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