記述と表現

 何か体験したことを言葉にしたとき、「わかった!」という驚きと感動がやって来る。言葉にすることは大事なことではあるけれど、それは「言葉に置き換えることができた=記述することができた」だけで、わかったことが表現できるわけではない。レシピを正しく理解できたとしても、それで料理ができるわけではない。

 だけど、今どきは言葉にすることが理解だと思われている。それは情報に置き換えているだけだ。認識は重んじられても把握は等閑にされている。
 わかったこと。それが体現できるのか?と問う真摯さが足りない。

 私が振る舞いやたたずまいという言葉が好きなのは、そこに何かが顕らかに現れているからで、でもそれは言葉に置き換えられない何かではある。
 振る舞いが巻き起こす風は見えない。たたずまいがもたらす香りやその人が立ち去った後に感じる、名残惜しさとしか言いようのない何かは、感じることしかできない。正確に言えば、感覚にものぼらないような、記憶することも叶わないような、圧倒的な何か。生きているということを全うする中でしか出会えないもの。感じられないもの。
 頬を撫でる風を感じはしたが、それはもう過ぎ去ってしまったことでしかなく、だから本当に感じたことは感じられないくらいの体験をもたらしているはずだ。

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