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私の心が横に揺れるとき

 昨夜、インスタライブ で友人の渡邉佐和子さんと下倉絵美さんとお話をした。二人ともアイヌコタンに住んでいる。

 佐和子さんと出会ったのは10年前。雪の降る中、札幌で行ったワークショプというにはあまりにお粗末な催しに来てくれた。人前で話すことに不慣れな、挙動不審の物腰が参加者に向けて披露されただけの時間だったと記憶している。

 人前で話すことができない。目を合わせて話すことが極めて困難な私(今でもそうだ)がそんな無謀なことを始めたのは、前年に出会った坂口恭平くんに「尹さんは人の話を全く聴いていないように見えて完全に聴いている。耳がいい」と言われたことがきっかけだ。本当にそうか試したくなったのだと思う。

 その日、佐和子さんは雪の中、車で5時間ほどかけて駆けつけた。その後の店を変えての懇親会の6時間あまり、僕の面前に座り、手巻きタバコを燻らせつつずっと質問してきた。ちょっとでも脇の甘い言葉を言おうものなら容赦はしないという気迫を感じた。
 隣にいた佐和子さんのお姉さんが別れ際に「妹のあの質問に耐えられる人はあまりいませんよ」と少し意外そうで嬉しそうな顔をしたのを覚えている。お開きになってホテルへ向かう中途、疲労感よりも高揚感が身を包んだ。

 以降、数年に一度の割合で北海道へ遊びに行った。会うたびに「アイヌ」というこの三文字の連なりを耳にした途端、それぞれが思い浮かべるであろう概念—それは場合によっては贖罪であったり、和人が失った生命観であったり、そのどちらも包摂しているか。あるいはどちらとも無縁のオリエンタリズム—と接しながらも、決してそれに収斂されない「人・こと・もの」と触れた。


 考えてみれば「アイヌ」とはアイヌの言葉で「人」を指す。「『人・こと・もの』に触れた」と記したが、ここで「人」という文字を用いると言いたいことと違えてしまうのはわかっている。「アイヌの人たちに出会った」とは人間と知り合ったことになるが、私は人間に会いに北海道へ行ったわけではない。
 アイヌと知り合ったのではなく、佐和子さんと彼女の木工の師匠である諏訪良光さんと絵美さんと出会った。


 鳥が今しがた飛び立った。その様子が私の目には映らなかった。諏訪さんは「今あそこに赤い鳥がいただろ」と告げた。最晩年の諏訪さんは失明していた。
 これはアイヌの古老の不思議な話ではない。私にはそのときに起きた身振りがすべてで、文字に書かれたものや残された物はほんの少しの証立てには役に立つけれど、風のように去っていく身振り、口振りが全部で、それに心震わせる時があれば、それがもうすべてだとしか思えなかった。

 絵美さんと出会ったのは4年前だ。表情に乏しく打ち解けて話さない私は下倉家の一室にこもってひたすら『ゴールデンカムイ 』を読んでいた。
 そんな閉じた私をどう扱っていいかわからなかったのかもしれない。ともかく阿寒の素晴らしさを味わって欲しかったのだろう。コミュニティバスに乗って、周囲を散策しようと誘ってくれた。
 たしか絵美さんのふたりの子息と佐和子さんの長女も同道していた。子供たちはバスの中でおしゃべりし、はしゃいでいた。乗客は私たち5人だけだった。突然、バスの運転手が怒声をあげた。「うるさくするなら降りろ!」


 私にはうるさいように感じられなかった。賑やかではあった。子供たちの活気が車中に満ちていきはした。それと運転手の怒気とは釣り合わない。訝しい思いがしたが、それをなんと表していいかわからなかった。私はそれまで以上に押し黙った。

 絵美さんは一瞬、しゅんとしたが、ポツリと呟いた。
「子供に怒鳴らなくてもいいのにね」


 ああ、これだ。「子供を怒鳴るな」。この一言を私は咄嗟に返したかったのだ。彼女は自分の子供や近しい子の身びいきで言っているのではなかった。そう感じた。

 子供とは怒鳴ってはいけない存在なのだ。生きていることが横溢している彼らを怒鳴ってはいけない。なぜなら怒鳴ってはいけないから。


 文字で書けば同義反復にしかならない。意味をなさない。けれども、そこでそのとき空中に紡がれて解けていった音としてのそれは確かにそうだとしか思えない何かだった。その感性がアイヌぶりと呼ばれるのかわからない。だが、それは絵美さんなのだと私は思った。

 バスを降りる際、「ありがとう」と絵美さんは運転手に声をかけた。知らない顔ではなかったようだ。そして道すがら「あの人にもそうなるだけの事情があるんだよね。疲れているのかな」といったことを話した。

 ひょっとしたら絵美さんはこの一件を阿寒を堪能して欲しい計らいにちょっと残念な色を添えたと思ったかもしれない。でも、私はすべてのことが阿寒を味わうために用意された馳走に思えた。


 昨日のインスタライブ で「ヤイコシ ラム スイエ」(この表記が正確かはわからない)は日本語では「考える」「思いをめぐらす」にあたると知った。直訳すれば「私が私に向かって自分の心を揺らす」。

 スイエは横にふらふらと揺れる。縦はタリタリという。私の心が横に揺れる。ふらふら。だが、ありありと揺れる。

 心や思いが身体にあってそれが揺れる。言葉ではなく音としてあるそれが靡く様子に私は耳をそば立てていたい。

(別の媒体に書いた記事を転載しています)https://yoon.substack.com/p/746?utm_source=profile&utm_medium=reader2

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