居敬

昨年末、巷では先生と呼ばれ、言論界の評判も高いとされる人のあまりに心がなく、敬意を欠く振る舞いを目の当たりにし、仮にも武術を学ぶものがそのような迂闊な行いを自らに許してしまうことについて驚き、訝しみ、心の中で見切りをつけた。

現代を生きるものが現代の常識の範囲で考えれば、過ちは取り返しがつくのかもしれない。だが、曲がりなりにも武術を稽古しているものであれば、古典の世界が何を物語っているかを知らないはずがない。明らかなのは、無自覚の行いに取り返しなどつかないことだ。

年明け早々、私もまたかねてより侮られていたことに腹を立てていたのだと知った。私は滅多に怒らない。むしろ相手の言動を理解しようと努める。理不尽なことも、その必然性を吟味してしまう。だからなのか怒るときは感情が発露するという道筋を辿らない。
武術の師からは「暗殺者タイプ」と評価されているが、怒りの感情はそのままに爆発はせず、感覚的言動に雪崩れ込み、言葉の応酬を許さないところから初手で止めを刺しにいく。そこに罪悪感がない。そのように扱われたことに対してふさわしい行いであり、一撃で終わらせるのはむしろ礼儀だと思っている。

それにしてもなぜ簡単に人を侮るのだ。人を前にして言葉を発するにも脂汗を流した経験がないからか。こちらの態度がおとなしく、何事にも理解を示すように見えるからぞんざいに扱っても許されると思うのか。侮ることで殺されるかもしれないという危機感、切迫さを覚えないことが不思議でならない。そのような態度でよくもこれまで生きてきたなと思う反面、自身もまたそうした振る舞いが天地神明に誓って微塵もないとは言えないだけに、だからこそ慎始敬終を忘れたくないと改めて思う。

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