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自分を幸せにするのは自分自身だから

この頃特に感じている。

推しという存在は
自分を輝かせる道具でもなく
自分の生きている価値を高めるために
存在するものでもない。
その存在そのものに価値があって
私達はその存在を愛し応援する事で
自己の幸福度を高めているのであって 

それは推しに限らず他の誰かや
更には何かしらの形ある物に求めても
自身の中身が伴わないならば
結局それはあくまでも物質的な満足に過ぎない。

そこは履き違えずにいないと、と最近特に思う 。

だからこそ益々、
ユンギさんが해금(へグム)に乗せた言葉
YouTube(等SNSやネット上)の奴隷
Flex(自慢)の奴隷
そうならないよう自身を戒めないと
と放つ強いメッセージは
警笛でもあり、
ただその曲と歌詞のカッコ良さにだけ沸いて騒いでいるだけではいられないな、と身が締まる思いがするのだ。

そしてそれを分かったふうに解説するのも、
はっきり言って要らない。
「カッコ良い風な」「知的風な」言葉の羅列は
つまらない。
その言葉達に少しでも、
自分をよく見せたい感を感じてしまうと
一気に興醒めする。
言葉はその人を映す。
だからそこに純粋さがないと、
真の誠実さと謙虚さがないと、
読み手の心には響いてこないのだ。

彼の創る曲達は
何度も何度も悩みながら生み出され
その歌詞は多角的に検討し、篩にかけ、
数年寝かせておきその間に熟されたり、
取り出してまた焙煎されたり、
まるで芳醇なお酒を作るみたいな
あるいは新しい薫りのコーヒー豆の開発みたいな
職人の仕事みたいで。

歌詞の一つ一つが深い思慮に満ちているから
考察したくもなるのは良く分かるが
ユンギさん本人が言った事が全てで、
ファンの決めつけた考察は
その曲と歌詞の多くの意味の深さや大きさの前には
陳腐なものに見えるし
本人以外の言葉で上塗りされたくはない。

たとえ彼や彼らの作る音楽が持つ
メッセージ性の高さがファンに疑問を投げかけ、
それを生かし、
自分の人生をより良く幸せに生きる為に存在してくれるとしても。

この世に存在する多様な物事
見えない事の方が遥かに多く
それを深く見つめ、考え、調べ、
見えている物だけで判断しない力をつけるには、
何よりも謙虚さが必要なんだと思う。
…自己愛や自己満足で終わらないために。
表面的、物質的な事だけで自身の存在を確かめるような薄くて浅い生き方にならないように。

その段階から脱しなければ
おそらく
本当の幸福に達するにはなかなか至らないと思う。

推し活(に見せかけた)ただの自慢と自己顕示欲は、自分の存在し投稿する場所がたまたまファンダム界隈のSNS、という所なので、その形は例えば行けたライブやイベント、買えたアルバムやグッズ、更には人より多く収集できた物…そういう事や物が中心になっていたりする。

そこにしか焦点がないと、非公式や転載禁止等のルールやネットリテラシーさえも飛び越えて、ただの自分勝手モンスターに成り果てる事もある。

特に日本公演のDVD、Blu-rayが発売した時の
開封動画は酷かった。内容のネタバレも。
なぜそれを載せるのか。いいね欲しさなのか。
いち早く入手した優越感なのか。
日本公演は、日本のユンギさんファンにとっては
プラチナチケット程の倍率と価値、そこに行けなかった人が大多数で、皆大層な傷心を負った。
だけどこうして円盤化し、
世界に先駆けて発売してくれて、
本当に嬉しいし、感謝してる。

でもやはりあの場に行けなかったファンにとっては
届いた円盤を観る事は
嬉しくて堪らない人もいるけれど
それ以上の大勢の人にとってはその悲しみや辛さを振り返る、やっと塞がりつつあるカサブタを剥がすようなものでもあるから、
観る事自体に勇気を要す人も、
未だにやっぱり観れないという人、
どうしても想いを消化できず買う事も出来ないという人だっている。
他にも、今は家族や自身にその分を投じる時期なので買えない人も。
事情は様々で、それは仕方のない事ではあるのだけれど。
でも、開封動画やネタバレはやっぱりいただけない。
そんな薄っぺらで低レベルな優越感を満たす為に
あの超素晴らしかった日本公演をあっさり消費しないで欲しいとさえ思う。
感動や興奮、幸福感はわかるが
最低限のルール、マナー、…いやモラルは持って欲しい。
正直、同じユンギさんファンなのが嫌になる。
クセは強くてもまぁ良いが、品がないのは、ね。

自由と自分勝手は、全然違う。
履き違えるな。
…해금(へグム)、奥が深い。
まだまだ色々な曲と言葉の一つ一つを
噛み締めていきたい。

そして何より自分の推し方と似た人からの賞賛や賛同、耳に優しい(ような)嬉しい言葉をもらうと
自身が何かとても良い人になったかのような、ちょっと素敵な人だと錯覚したり、
逆に少しでも批判や間違えた事を教えられても、
冷静になれず同意見の人からの同情や大丈夫、という言葉の安心だけで終わり、現実に目を向けられない。

最近特にブランド購入やどこかへ行った、買った、やたらと投稿する人が増えた。
なんでそんなに言いたいのか、良く理解できない。
店舗での推しの大きな広告を見に行く楽しさもあるし、アンバサダーをしている時に何か記念に購入する、という楽しみも確かにある。
しかし、どうしてもハイブランドは主要都市に店舗も限定されてしまうし、行けない人はとても多いだろう。
お金と時間の自由があり遠距離でも関係なく行ける人もいるだろうけど…
でもおそらく行ったり買ったりしたのは
一握りの人達で、いつもその界隈のX等で投稿を上げるから声が大きく感じられるだけで。
大半は仕事や家庭環境的にも経済的にも、中には体調的にも実現が難しい人が大半だろう。
そしてSNSは自分がよく見る種類の投稿がアルゴリズムのせいで、同じようなものばかり集約し、
周りのほとんどの人達がそうなのだと錯覚しやすくなる。
そうして行けた、買えた、素敵な体験ができた
「勝ち組」
そうではなく叶わなかった
「負け組」
…のような錯覚が生まれる。
しかしXやInstagramに投稿しないファンの方が
絶対的に多いし、実際には見えないだけで
行けるのも買えるのも体験できるのも、
特にライブに実際に行けるのは、一握りの人の
本当に貴重な幸運で、
まぁお金で買える幸運もあるが、
それもまた大多数の人には叶わない事。
でもそちらこそがマジョリティであり、
だからこそ行けた一握りの人はその大きな幸運に
感謝しながら、その思い出を抱きしめるように大切に大切に、心に持っておいたら良いのだと思う。
…純粋なまま。

他者へのそのレポートや、自慢は必要?
抽選に運悪く当たらなかった人や、自分の環境的に
申し込むことさえ叶わなかった人の悲しい気持ちを踏みつけ、その上に立つのは、そんなに嬉しい?

そんな愚行に満足しても、
人生が成功したわけではないのだ。
そんな薄っぺらな優越感は、
すぐまた別の機会が来れば、すぐに塗り替えられていき、永遠に満足など出来ない。

ほとんどの人が優先順位を考え身の丈に合う推し活をしている。
だから見えている、聞こえている狭い範囲の事柄に
右往左往、一喜一憂するのはあまりに馬鹿馬鹿しい。
もっと注意深く目を凝らして見た方がいい。
あまりに熱狂的になり過ぎて、
見えなくなっているだけで
実際にはそんな事はないことに、
現実世界はもっとシンプルで、淡々としているのだと、そしてそれで良いのだ、と思う。
シンプルで淡々ととした時間の中にこそある幸せを
感じ取れる事、それは心を向けていないと気付けない。

熱狂的に吹き荒れた一時の昂まりに煽られ
醜い気持ちに沈むよりも
その時間を、
愛しい人の作って聴かせてくれる曲に
心から浸る事、愛する事に使いたい。

いや、SNSは何を呟くのも自由だ。
自由なのだ。
だからこそ、だ。
投稿する内容、その言葉には
その人自身がしっかり表れてしまう。
言葉はその人の品性を表す。
思いやりがそこにあるかどうかも。

綺麗な、考えぬかれた言葉を書く人もいるが
そこに透けて見えるものは隠しきれない。
私ってこんな言葉を知っていて、推しの彼の事、こんなに素敵な良い言葉で語れるのよ、と。
しかし人の賢明さ、聡明さは、難しくて賢そうな言葉を使ったからと言って、その実はそうとは限らないし、
ましてや聡明さを顕示したい人の文章は、
わりとそれが分かりやすく表されている気もする。
周りには分かってしまう、案外簡単に。

素敵な人を推す私とその推し活素敵でしょ、と
自分に酔うのも別に良いけれど、
誰かに認められるのではなく
自分がそれを良し、として納得していれば良いのだから。
時々は自身を外側から見れる冷静さは持っていたい。

本当の聡明さとは
私が思うに、だが
誰にでも分かりやすい易しいシンプルな言葉を使い
そこに「心」が伴うならば
きっと真っ直ぐな直球のように、読んだ人に届くものではないか、と。

そうは言っても、私だって例に漏れず観たいし行きたいし買いたい。欲しい物は持ちたい。
しかし、私の場合マイペースだからか他人の目や存在はそこにない。
推しと同じ物を買えたり身につける事が嬉しいタイプのファンなのだが、手に入れられたらもちろん嬉しいし大事にするが、その喜びは独りで歓喜したいタイプでもある。
人に伝えたいとも、共有したり、ましてや賛同とかも欲しいとは思わない。
独り愉しむ根暗なオタクといえばそうだが。
でも、オソロイは結構好きだ。だいぶ好きだ笑。
親しい友達と同じ物を持つのも嬉しい。

ハイブランドも然りで、今回も彼が素敵に着けていたアクセサリーのうちの幾つかを、果たして自分のファッションや好み、そして似合うかどうか、そしてもちろん一番は経済的にも自分の身の丈に合うか随分迷ってから購入したが、
その一つは生憎店頭に無いものだったので、
流行りに乗らず、いや正確には乗れず、
通販を通し別の購入の仕方をした。
もう一つは、その公式オンライン店で購入、
ラッキーだったのは半額になっていた事。
ここにこうして書くのは買えた事が言いたいのじゃなくてその背景を言葉にしておきたかったから。
でも結局あんたも買ったという自慢じゃん、
と言われるかもだけどね
そこはもう、何でもいいやと思う。

しかしあの時期の彼のファンは私自身も含め
あの巨大な柱巻きの彼の広告のあまりの爆イケさに
店舗に行かなきゃならないような衝動に駆られたのではと思うし、殆ど祭りのような、まるでフィーバーかのようだった。
ハイブランドゆえに、広告を撮影するだけの入店は
さすがに憚られるから、何か購入しないと、
と言う人も結構いた。でもそれは無理だから現地へ行き遠目や道の対岸からそっと見て写真を撮った人も。
そしてそれを機に初めてブランド物を手にした、という人もいたし、売り上げも通常を遥かに超え
300%以上だとか聞いた。とにかくそのブランドの戦略は大成功だったのは間違いない。
大好きな推しの仕事を更に推し上げた、とも言えるのだろう。

…しかし、だ。
ちっとも推し活幸福度が上がったように感じられないのは私だけか?

いや、その時期の私はそもそも、初めてのぎっくり腰(しかもわりと酷めの)を患った時期と重なって
店舗に行く事は叶わなかったのだが笑。
でもだからって行けた人に妬みも湧かなかった。

特に悲しくも辛くもなく
それが買える買えないに拘らず
このどこか絞り出したような流行りの空気に違和感がずっと続き
自分も一応彼と同じ物を得たし、
そのキャンペーン期間限定で買えるという特別感はあったが…

欲しい物は常にリサーチして時期をずらして
お金を貯めてから、と待ったり
今だ、と思う時には手に入れたい時に思い切って買ったり。
そういう流れは普段の推し活と何ら変わらない事なので今回のこの内心異常とも感じていた流行りの熱の正体は…?とゆっくり腰を治しつつ考え続けていた。

兵役で不在な寂しさはあるし、何かないと不安なのかもだが、オタクというものは年中イベントや
ライブの高揚感がないといられないのだろうか。
自慢の投稿をする人へと、それを見て自分には叶わないからと落ち込み界隈からしばし姿を隠す人にも、どちらにも何だかイライラしていた。

正直言って下らないとも思ってしまっていた。
毒をもっと吐くなら、
本当のセレブは自分を楽しませるのに忙しく
いちいち自慢なんかする暇もないし、
成金的物質主義がそもそもカッコ悪いと思ってしまうのだ…。
そして妬む人もまた、そんなものに振り回されて自身の本来の内面の輝きに曇りを自ら落とし、
そんなのは本当に勿体無いし自身の価値を下げてしまうのを見るのが悲しくて嫌でもあった。

そして行き着いた。
それはユンギさんのファンだから、なんだろうと。

皆、寂しいのだ。

彼は他のメンバーとは違う形での服務、
自分の立場、発言や動きがもたらす影響を深く認識して配慮しているからこそ
清々しいほどに姿を現さない。

それでも一言くらい…とか言ってしまうファンもいる。
他のメンバーが折を見てコメントやインスタ等を休みの時に上げてくれるから、
それも嬉しいけれど
やっぱり彼の一片を見たくて聞きたくて、
寂しいからだ。
だから何か盛り上がる事を探してしまうのかもだ。
ブランド熱が落ち着く頃、今度は今月の彼の誕生日の話題になり、流行りと祭りの熱は今度はそちらへ
移った。
何かに夢中になってこの寂しさを埋めているかのように。

だけど。
この時間こそが試される時間なのではないか。
そんなもので彼への想いが揺らぐものでもないはずでは。

寂しい。
確かに寂しい。

だけど彼の、
彼らしい(と自分も分かったように言うのはいけないが)
どーん、と一本の太い柱のような
筋の通ったその有言実行型な姿。
きっと間違いなく日々を、
努力を怠らず研鑽しながら
今までとは真逆とも言えるだろう環境の中
誠意を尽くして頑張っているだろう。

いつだってファンを蔑ろになどした事がない
誠実な彼の沈黙を、
そのきっぱりと決めている姿勢を、
そういう人だから好きなのだと、
愛してやまないのだと。
私達はしっかり自分の事をしながら
静かにエールを送りたい。

時差がないのはありがたくて、
良く眠れたか、朝は食べたか、
仕事は順調か、周りの人は優しいか、
お昼には少し美味しい物を食べられてるか、
夕方には仕事を終えた後に同じような安堵感を
彼も感じているか、
同じ時間軸の中で日々を想像する。
それは今までよりも、より身近な感覚に感じる。
錯覚かも知れないけど。
いや、多分そうなのだけど。
なんか少し、距離が縮まった感じがして
幸せでもある。
ま、錯覚だと思うんだけど。

そして一番感じる事…
行けた、観れた、買えた、持てた、
そういう物質的な目先の物や
目に見えるだけの現実にでなく
彼と彼らからもらう音楽と言葉に乗せた愛を
その愛を受け取り
愛を返し
今日の、明日の、いや今この時間と瞬間の自分が
「どう在るか」。

ユンギさんの紡ぐ言葉と編む音楽を聴く度に
それを忘れずに
それを感じながら日々を過ごす事に
幸せを感じているし
彼と彼らが戻っても
この先もそれは変わらないと思う。

そして
自分を幸せにするのは
自分自身しかいないのだと思う。

愛しい推しを通して
自分の良さや想いに気付いて行けたらいいな。

自分を推すのはまずは自分自身なのだから。

別にうんと聡明な賢い人になろうと頑張らなくていい、
ただ、見えるものにだけ振り回され自分を失うのではなく、
見えない世界を意識して
自身の真の願いや想いを見ようとする生き方でいたい。

今日も愛しい君から
多くの気づきと
更に募る想いをもらい
幸せに生きています。

君の存在が
私を生かす。

自分もまた君にとって
間接的にでもいいから
そう在れたらと切に願う。

あまりに長くなったこの頃の想い、
毒を浄化し吐息に変えて
これからも
共に推す仲間達と楽しく幸せでいたい。

最愛のユンギさんと
愛しいアミさん達へ

愛を込めて

2024.3.24







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