「いい子でいないといけない」呪い

先に断っておくけれど、これはなんの山もオチもない話で、きっと読み物として意味を持たない稚拙なものになる。

読んでもなんの得にもならないし(以前のノートが役に立つかと言われるとそうでもないけれど)、一言で言うと私が抱えきれなくなった想いをぶつけただけのものになる。

誰に読んで欲しい訳でもなく、ただ自分の中にあるものを吐き出して消化したいだけのノートになります。


自分で言うのもなんだけれど、幼い頃から比較的真面目で「いい子」だった。

そりゃ、人並みにいろんな失敗をして怒られることはあったけれど、基本的にはいい子だった。というよりいい子であろうという意識が常にあった。

父親が居ない私は母ひとり子ひとりだったからこの母親に嫌われたら人生全てが終わると思っていたというのもあるし、大人に囲まれて育ったからというのもあるだろう。

子どもなりに悪いことや大人を怒らせることもしたけれど、それは人並みの範囲で、周りの大人からは「いい子」「優等生」という評価が珍しくない程度には真面目な子どもだったと思う。

いつからかそれが自分自身への呪いになっていたことに気付くのは、だいぶ成長してからのことだった。

相手を困らせることをしてはいけない。これは言うまでもなく対人関係の基本のひとつで、別にこれが出来たからと言って物凄く褒め称えられることはない。人としての「当たり前」というやつだ。

でも、時にはそれに心が反する時がある。

例えば。そう、例えば、恋人との約束が相手の都合で果たされなくなった時。

一度や二度なら仕方がないと諦めるのもそう難しくない。

それが何度も続いて、限界というのは人によってきっと違うけれど、その限界に達してしまった時。あまりにも具体的すぎる「例えば」、それがそれが今なのだけれど。

私にとっての「限界」が人より早いのか遅いのか、そこも問題だけれど、今はそこではないところを問題としたい。

とにかく「限界」に達した時、人はガス抜きが必要だ。さもなくば爆発してしまう。爆発は大人として避けたい。

事実を曲げたいわけではない。「約束が果たせない」という状況を変えたいのではなく、単にちょっと溜まってしまった鬱憤をぶつけたいだけ。それ自体が子どもじみた事だというのは分かっているけれど。

あまりにも有名すぎる「仕事と私どっちが大事なの」という言葉をぶつけるわけではないけれど、きっとこの言葉もみんな本気でそう思って言っているのではないと思う。

そう言う事でしかぶつけられない鬱憤をぶつけて、発散できれば、みんなまた「いい子」に戻れるのだと思う。

私も、言葉はソレではないにしても、そうしたかった。そうせずにはいられなかった。限界だった。

ほんの少しだけ私のことで困ってみて欲しかった。ごめんという言葉と、次に埋め合わせで美味しいケーキでもご馳走してくれれば、それで充分だった。

いざ限界に至って、ぶつけようと思った時、まるで鎖で繋がれた囚人のように心を縛り付けるものが邪魔をした。

「いい子でいなければならない」という呪いの鎖だった。

幼い頃から、いい子でいなければいけないと思っていた。

周りの友人達が学校から家に帰ると親が居て、色んなところへ遊びに行ったりする中、私は親が仕事でいない為に学童保育へ預けられ、親との時間もなく、好き勝手に遊びに行くことも出来なかった子ども時代。

休みの日も親の仕事次第では遊んで欲しい時に遊んで貰えなかったこども時代。

それでもいい子でいなければ、と言えなかったワガママ。それが大人になっても縛りつける。

「いい子で居なければいけない」「いい子であるためには、そんなことは言ってはいけない」そんな鎖がギチリギチリと心を縛り付ける。

だけど心が、「もういい子で居たくない」と叫ぶ。

叫ぶ。縛り付ける。叫ぶ。縛り付ける。

決して大きくない心の中で繰り返される葛藤。

アニメやドラマの世界で見るような、両手を両足を鎖で繋がれた囚人がガチャガチャと大きな音をたててもがくように。

どうすればこの鎖から抜け出せるのか。

あとどのくらい大人になればそんな葛藤すら抱かなくなるのか。


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