『猿の惑星』についての私の感想もやっぱり最高じゃないだろう

独自ブログに分割して書いてたものをまとめてみました。オリジナルは 




前回、北村紗衣先生の連載をきっかけに『ダーティハリー』を見ておもしろかったので、『猿の惑星』も見てみました。

ええっと、まず最初に断わっておきたいのですが、私は猿はあんまり好きじゃなくて、というのも数年前に自宅の近辺で猿に襲われそうになったことがあるからです。住んでる借家が大きなお寺の広いほぼ敷地内にあって、そこは京都の東山連峰と林でつながってるんですね。それでそのころ猿が降りてきてたんです(最近はイノシシも来てるらしい)。んで、通勤路で一匹の猿と目があってしまって、やばいとは思ったけど目が離せなくなってしまったら、「ガーっ!」って脅かされたんですわ。とても怖かった。そういや嵐山のサル山でもサルに襲われそうになったことがあるし。猿怖いですね。とにかく猿には悪い印象があります。そういうわけで、『猿の惑星』のすてきな人たちについては、猿じゃなくてエイプと呼ぶことにします。そもそも、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンなどのエイプ=(大型)類人猿は、私の嫌いな猿=モンキーとは一応違うカテゴリーなのです。

さて、『猿の惑星』という映画は名前は聞いたことがあるんですが、そんなに名作だとは知りませんでした。「猿の軍団」と混同してたかもしれません。とにかくどういう映画か知らない、先生の連載についてのSNSでの書き込みで興味をもっただけ。

とりあえず、連載の記述にしたがって私の(あんまり最高でない)感想も書いてみたいと思います。最後に自分の感想を書きます。

「プロットホールに要注意!」

まず、先生はそもそも主人公たちは「猿の惑星」に何をしに行ったのかがわからないとのことでした。

テイラー一行は何のミッションで宇宙に行ったんですか?

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これはたしかにわかりにくいですね。しかし私のような老人はすこし推察できるところがあって、この映画が作られた1960年代というのはアメリカとソ連が「冷戦」状態にあってかなり緊張していて、いつ戦争、それも核戦争になるかわからない、ぐらいの時代でした。1970年代になってもあちこちで核実験とかして、「放射能の雨が降るから外に出ちゃだめだよ」なんて言われてたもんです。

核兵器軍拡の他にも、宇宙開発とか盛んで、アポロ11号が月に到達したのは1969年、『猿の惑星』公開(1968年)の1年 です。宇宙に出るのはみんなの夢であり、国家の威信の高揚の手段だったわけですよね。アポロ号どころか人工衛星のソユーズ号とかだって非常に危険だし、生きて帰れる保証なんかなかった(実際死んでる宇宙飛行士はたくさんいる)。そのミッションを達成した人々はもちろん、チャレンジした人々は時代のヒーローです。名前が永遠に残る。そして、いずれは、人類として、誰かに火星や木星や、あるいは太陽系外の惑星や小惑星を探索してもらいたい、って人類や国家や個人が考えてた時代なのです。それがその人々の命と引き換えになるとしてもね。今じゃちょっとわかりにくいけどねえ。でも、各種の「冒険」って今でもそんなもんしょ。

それに地球が環境的にやばいと言われた時期でもある。核戦争で地球が住めなくなるんじゃないかとか、公害や人口増加でどうしようもなくなるんじゃないかって言われてた時代でもあるわけですわ。

だから、まあとにかく人類の到達地点を遠くまで伸ばしたい、みたいな動機っていうのはわからんでもないのです。乗組員は科学者だって言ってた気がするし、つまり、基本は科学調査ですよね。昔は科学調査に命をかける価値があると考えられていたのです。いまじゃ科学のためとはいえ無謀なことをするのは不正だ、研究倫理に反している、って考えられているから、そこらへんわかりにくいけど。

むしろ、当時の観客にはいずれ人類が太陽系外まで出ようとするのは当然である、ぐらいの感じもあったんじゃないですかね。 古い作品を見るときは、作品だけではわからないかもしれないけど、そういう社会的な文脈みたいなのも考えてみないとならない のだと思います。でも初見でそれは無理っすかね。

しかもこの映画は最後に、テイラーたちが不時着した惑星は実は地球だったということに気が付くんですけど、気づきませんか!? 「この惑星は地球なんじゃないか」くらい考えません?

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これもよくわからない。少なくともテイラーさんは途中で薄々気づいてると思う。テイラーがいつ確信したか、というのは判断がむずかしいですが、しかし最初そこが地球だと気づかなかったのはなにも不思議はない。300光年先まで旅したつもりになってたわけだし、時間の経過みたいなのもいちおう予想通りだってんだし。宇宙船が沈没せずにすんで、いろいろ簡単な調査をして、そこが地球だとわかったとしても、全体の話の筋はほとんど変える必要がないですよね。

そこが地球であろうがなかろうが、テイラーさんがまず考えこと、やるべきことは、彼のもともとのミッションがなんであろうとも、まずはエイプさんたちから逃げだして自由になって安全を確保することであり、次は自分の状況を確認して自分の生存と安全のために最善の対策を練ることである。そして可能ならば、なぜ自分がこういう状態におかれているのかの理解もほしい。その次に地球との連絡や世界の理解ですか)。さらに可能ならば、優先順位はすごく下がるけど地球と連絡をとったり(これはもう無理そう)、あるいはこの惑星にいるはずの他の話の通じる人間を探し、そのコミュニティに参加したい。(こういう世界の理解の優先順位はもっと低いかな?(1)当座の安全の確保(脱出)、中期的な安全の確保(避難場所や食糧その他の入手)、長期的な安全の確保(コミュニティの確保かなあ。)

だから「最初から地球だと気づいていたらお話が進まないのでしょうがない」ということもないと思う。プロットとしては宇宙船すぐに沈没させて、主人公たちがなにもわからない状態にしている。テイラー自身も「なんでここは(エイプとヒューマンの地位が)逆転してんだ?って質問していて、少なくとも地球との関係は理解している。実際、テイラーが「ここは地球のはずがない」のような発言をする機会もない。自分がいるところがずばり地球であるとの確信はないかもしれないけど、地球と密接な関係があることはわかっている。そこが地球であるかどうか、というのはとりあえずはしばらくはそれほど大きい問題じゃない。それより大きな問題がある。

だからそんなに「プロットホール」と呼ばれるところはないように見えるんですわ。どこに穴があるんだろう? あるとすれば、エイプの鉄砲は相当精巧なものなので製鉄や機械工学相当進んでるように見えるけど自動車がない、とかですかね。医療技術とかもすごい。むしろ、自分たちにプロットの穴があるように見えたら、 一応は 穴を埋めるなんらかの前提があるかもしれないって考えてもいいんじゃないですかね。プロットの穴には注意するべきだけど、なんでも穴だと思ってはいかん、と思うのです。

「猿が英語を喋ってる!?」

『猿の惑星』を見る気になったのは、登場人物だけでなくエイプの人たちが英語を喋ってるのがどうなのか、という話題をSNSで見たからです。

前のエントリに書いたように、主人公がそこが地球だとわからなかったのがプロットホールである、というのは私はよくわかりませんが、それが「猿含めてみんなが英語を話している時点で無粋な突っ込み」というのもわかりにくい。

異星人ものや異世界ものでの言語の設定が重要なのはその通りだと思うんですが、1960年代のハリウッド映画製作者たちがその程度のことも考えずに映画作ってる、というのは、 製作者に対してあまりにも侮辱的 なんじゃないかと思うのです。

ハリウッドで作られている映画がアメリカが中心で英語中心なのはその通りで、それは映画という大衆娯楽の制約ですね。昔は古代ローマだろうがパレスチナだろうがみんな英語しゃべって平気だったかもしれないけど、しょうがないとはいえだんだんそういうのがつっこまれるようになる。SF
となれば当然のことです。そして、時代が下るにしたがって、普通はそれを正当化するような理由も映画のなかで明に暗に説明されます。

この『猿の惑星』という作品が独得なのは、主人公のテイラーたちが最初に出会う動物が人間(ヒューマン)であること、そしてそのヒューマンたちがほぼ他の動物同然の口も利けない状態にあることです。まあ異星人だったらしょうがないのか……しかしその後に数種類のエイプの人(複数の種族がいます)たちが登場して、残虐なヒューマン狩りをする。しかしそこでも言語は使われてないんですよね。

はじめて「惑星」の原住民(エイプの人も含む)によって言語が使われるのは、なんと、ヒューマン狩りをして戦利品としての死体を並べてエイプの人たちが「記念撮影」(!)をするシーンなのです。そこで「スマイル!」と発音される。そりゃみんなびっくりしますよ。 少なくとも 私はここでびっくりしました 。60年代に見てた人もびっくりしたと思う。エイプが 人間を殺して並べて「スマイル」 ですよ? それは、一部の日本人兵が南京でやったこと、太平洋戦争や朝鮮戦争やベトナム戦争でアメリカ人兵士たちもやったと思われること、全世界の戦争で我々が兵隊になったらやってしまいそうなこと、それに、 趣味としてのハンティング でいままさにやられていることなのです! 私らはそれで戦争の愚劣さやホビーとしてのハンティングの自分勝手さを思い出させられるし、そのときの言葉が「スマイル!」という 英語 であることには十分な意味がある。

そして「アメリカの映画では言葉は全部英語でやるお約束」っていうのに納得していない観客は、「なぜ英語なんだ?」っていう疑問を抱くことになる。これは、 この映画の核心部分にある謎 であり、製作者たちが適当にやってるからそういうことになってるんじゃないのです。私の解釈ではね。

言語でコミュニケーションを取れないことが作品の中で重要になったり、あるいは翻訳機を使ってコミュニケーションを成立させたりするんです。この言語の設定がけっこう英語中心的であることも昔のSFだなぁという感じですね。

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こういうふうに先生はおっしゃるわけですが、いきなり地球で見たのとよく似た(てかまったく同じように見える)人間やエイプや馬に会い、人間とは 話が通じない のにエイプの人とは 英語で コミュニケーションが 取れちゃった ことがむしろこの映画のキモであるわけです(最初はわざわざケガで声が出ない 設定 にされて苦労したけど 文字でもOK! )。そこがむしろ 新しい わけなんじゃないでしょうか。

退場した人物に注目すると見えるもの

あと惑星に不時着する前の宇宙船で、乗組員で唯一の女性のスチュアートが死んじゃうじゃないですか。特にそのことが回収されることもなかったので、いったいなんだったんだ? と思ったんですよね。

 しかも、そのあと現地人と初めて遭遇したシーンで、乗組員で黒人のドッジが猿に射殺されていますよね。つまりこの映画って、白人男性以外はすぐ退場させられているんですよ。

これってプロット上、女性や黒人がいるとまずかったってことだったんじゃないですかね。猿によって差別される人間がいて、そのなかで男性と女性、白人と黒人の間の差別を描く、という難しいテーマに取り組むのを避けたのかもしれません。

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そう、白人女性も、黒人男性も退場させられ、もう一人の白人男性も脳ミソ切り取られちゃう。インターセクショナリティの観点からすると黒人女性も存在して殺されているべきだったか……んじゃアジア系男女も殺されないと……。まあそういうわけで、いちおう人種性別わけへだてなくひどいめにあってますね。いかにもな白人男性だけ生きのこってるわけですが、まあそれは主人公をどうするかって話になり、60年代ハリウッドだったら白人男性残すかな、って感じですかね。もちろん白人女性を残してもいいし、白人男性のかわりに黒人女性を加えておいてその人を主人公にしてもいいわけですが(あるいはラテン男でもでもアジア女でも中東ノンバイナリーでも)、当時としては先進的すぎますかね。

とにかく(ハリウッド)映画というのは2時間ぐらいのあいだに観客を楽しませないとならない、という外的な制約があって、いろいろそうした制約との戦いであり、選択だと私は考えています。

基本的には私が理解するところでは、主人公以外の3人は科学者であり、黒人も女性もちゃんとした科学者であり、科学者が科学調査するときはグループでやるものだと思うんです。1970年代から現在に至るまで、映画では科学や分析的な仕事をする人はあえて黒人や女性に割りふられることが多いと思います。この映画でもその程度の配慮はしている。だからまあ4人いて3人殺しちゃうっていうのも筋としてはそんなに悪くない。「描くのを避けようとした」っていうのもあるかもしれないけど、2時間ではそんなに描けないんじゃないでしょうか。スタートレックみたいなテレビシリーズだったら時間を気にせず描けるわけですが、白人と黒人、あるいは男性と女性の「差別」の話がこの映画のテーマだ、っていうのは本当だろうか、って考えてみてもいいんじゃないでしょうか。

昔の映画なんで、こういうふうに「男女/人種がアンバランスだ」ってやるのは ものすごく簡単 なんですよ。白人男性が主人公だったらそれだけで「描いてない」になっちゃいますもん。簡単すぎます。1960年代ぐらいまでなら、映画を実際に見なくても「性差別的だ」「人種差別的だ」って言えちゃうじゃないですか(少なくとも、「差別」じゃなくて「白人男性中心」だったら、見なくてもまず当たる。そういうものに価値があるのかどうか……そういう「感想」が重要なら、そもそも見る作品が間違ってんじゃないですか)。

「俳優=役ではないけれど…」

ここはよく知らない、映画そのものからすれば外的なことなので飛ばします。『ベンハー』の人なのね。まあ社会的な関心もってる俳優さん、っていうのはありえると思うし、名前がどかんと出るんだから、作品全体のメッセージにもあるていど発言力と責任をもっているというのは十分にあると思う。SFぽいけど実は社会派映画である、っていうのは十分ある。

ていうか、監督や脚本家に加え、主演級の人が映画全体のメッセージに影響力をもってるってのはハリウッドではけっこうありそうですね。俳優としてのキャリアにも影響するわけだから、人気俳優は発言力があるのだろう。基本は映画の中での情報で考えるべきだと思うんですが、外的な情報を使うのは批評や感想としては全然問題がないですね。ただしそれは映画そのものからは外的な情報だ、っていうのは意識しておかねばらない。

「マッチョなSFのジェンダー観」

テイラーって感情移入のできない主人公ですよね。なんかずっとイヤな奴じゃないですか。しかもスチュアートが宇宙船に搭乗していたのは「新しいイブになってもらうため」と言っていて。母親になるために乗っているって性差別的だなって思ったんですよ。

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ここはフェミニスト批評家らしいし、前のエントリのような安易(?)な批判じゃなく、作品の内部に入りこんでいるのでよい感想・批評だと思います。

私もテイラー船長はいやな奴だと思いますね。実際、製作者も正義感のある善人、みたいには描いてないと思う。遭難して最初っから他の搭乗員に余計なことを言って喧嘩してるし。基本的に非常にネガティブで、攻撃的で、人生(あるいは社会や地球)に絶望している感じがある。まあ本音が少なく、無駄なイヤミや皮肉は多く、他人に心を開かないいわゆるハードボイルド的ヒーロー/アンチヒーロー。

そもそもこの探検プロジェクトは地球時間にして数千年かかることが最初からわかってるわけですから、この搭乗員4人は、実質的には社会的には自殺しているのと同じです。地球の人々に永遠のおわかれをしてきているわけす。だから、それぞれ社会から離脱する心理的な傷や事情を負っているか、自分の人生より探求を優先するとてつもない変人である、ぐらいのことは想像できます。(もちろんみんなからヒーローして称賛されたい、という欲望もあるだろうし、その事については最初の方の会話で触れてました)

ただし、女性科学者に「新しいイブになってもらうため」のところは撮影時に使われてるらしいスクリプトを見ると、こんなふうになってます。


(現地人女性ノヴァに向かって)
Did I tell you about Stewart?
 (looking away)

 There was a lovely girl. The most precious cargo we brought along. If human life could survicve here, she was to be the new Eve.

 (morosely)
> It's probably just as well she didn't live to see this.

https://sfy.ru/?script=poa_1968

ここはかなり「解釈」が必要なところですね。スチュワート搭乗員にはかなり好意をもっていた。一連のセリフの最後は、彼女がひどいめにあったり、絶望したりする必要がなくて早く死んでむしろよかった、ぐらいですか。あるていどは女性を大事にするという意味で「フェミニスト」。「もっとも貴重な貨物」扱いしていることで人間を貨物あつかいしていて奴隷制(「モノ化」)をおもわせる、ってなことが指摘されていて、それは一つの読みではありますが、ハードボイルドな屈折した表現でもあるかもしれない。他の二人の男性は、この女性ほどの価値はない。もしかしたら貨物としての自分自身よりも、この女性の方が価値がある貨物だ、って言ってる。そもそも他の二人についてはノヴァに語ることはないわけで、ある特殊な感情がこの「貴重な貨物」にある。この意味でも(ある意味で)フェミニスト。(緊急時には女性が優先的に救助されるべきだ、という『タイタニック』原則にも関係ありそう)

もちろん、こういうセリフは、解釈が分かれるところですね。そして解釈する主体(私とあなた)の態度や考え方、その人自身が見えるところでもある。私は、テイラーは彼女を本気で貨物扱いしているわけではないだろうと読む派です。てか、そういうアイロニカルな表現を自分なり読みこんで解釈しないとハードボイルド的な作品の多くが理解不可能になっちゃう。

「新しいイブ」の方は、「もし人類(俺たち)がこの惑星で生き延びられるなら、彼女は新しいイブになっただろうに」ですよね。自分で妊娠させるつもりだったんでしょうねえ。でも、そのために貨物として載せてきたわけじゃない。むしろ、宇宙船が沈没して帰る手段はなくなった、この星で我々人生が存続する可能性はない、っていう絶望が表現されているわけです。私の読みではね。でも他の解釈もありえるだろうし、ここにテイラーの暗い欲望が見えるという読みも十分可能だと思う。あるいはもっと一般化して、人間が生きて活動している以上どうしても生じてしまう性欲の問題が背景にあり、国家がそれに対する対策をしていうのは十分ありですね。この一部で「宇宙戦艦ヤマトの森雪問題」と呼ばれてるやつ(呼ばれてない)をつっこむならそれはそれであり。人間(あるいは動物一般)が密室に閉じこめられるとセックスの問題が生じてしまう。それを(なるべく)生じないようにするには同性だけにしたらいい、となると男4人か女4人で宇宙船に乗りこむことになりますか……それでいいかどうか。

この「マッチョなSF」の節は他にもいろいろ論点があるので続きます。

あとノヴァの描写も気になるんですよね。この人だけ話をしないし、やたら薄着じゃないですか。しかも妙にテイラーに気に入られているし、一緒にいようとしているんですよね。プロット上、薄着の女性がくっついている必然性はないと思います。

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まあこのノヴァ(ターザンの「ジェーン」役)はたしかに気になりますね。「この人 だけ 話をしない」(強調は某)は微妙で、そもそも原住民ヒューマンは言葉を話さない(話す能力がない)ことになってるようです。 性差別だというなら、むしろ、 言葉を話せない原住民男性ヒューマンたちがなんの価値もないものとして描かれている ことを性差別だと認めてもいいくらいなのではないか、という気もします(これは実は女性乗務員をさっと殺していることにも関係があって、男性殺して女性を残しておくと、当時の価値観では「貴重な貨物」である女性を守るために他の男性がいろいろ無理せねばならず、ぜんぜん違う話になってしまう)。原住民をロビンソン漂流記のフライデーにするぐらいの演出があってもよかったのではないか(だめですね)。ノヴァはナイスバディだから価値があるけど、男子はなんの価値もない。同じヒューマンなのに!

ノヴァはテイラーに気に入られてるし(セクシーなジェーンだし)、テイラーを気にいってるように見える。前エントリのあとに「俺たちの間にloveはあるだろうか」とかたずねられてわかってるのかわかってないのか……(この問いの意味もむずかしくて解釈が必要だけど今回はパス)

ノヴァが極端な薄着なのはまあ観客サービスですか。必然性がないと映画では女性は肌を晒しちゃいけないっていう考え方はあるかもしれないけど、他のヒューマンもほぼ布切れ一枚<sup><a id="fnr.8" class="footref" href="#fn.8" role="doc-backlink">8</a></sup>、テイラー船長もほぼ全裸、場合によってはフルチンだし、女性も薄着でいいんじゃないでしょうか。だめですか。むしろ、 この世界のヒューマンが布らしいものを身につけてる方がおかしくて 、どう見ても布を生産できる文明程度にはない。エイプたちから盗んできたのかもしれないけど、そんな困難なことを組織的にできる理性をもっているのか…… プロットの穴 っていうのはそういうところじゃないでしょうか。この場合は、映画としてはヒューマンの全裸は困ります(私はかまいませんが)、ぐらいの理由からこの穴が生じているわけですね。

現地人にも嬉しいとか嫌だといった簡単な感情機能はあるように見えるので、乱暴な言い方になりますが、原始的な人間がそばに頭がよくて強そうな男性がいることに喜んでいるって描写なんだと思うんですよね。でも、まるでつがいの片方みたいに女の人をもってこられたら怒りませんか!?私だったら怒ると思うんですけど。

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ここもまともな感想、というかつっこみだと思いますね(ただし、ヒューマンがもってるのがそれほど「単純」な感情に限られているのかは謎)。実際ジェーン(じゃなくてノヴァ)は、エイプたちからテイラーに対する明示的な(はっきり言葉で述べられる)「プレゼント」としてあてがわれるわけで、それが人間の尊厳やそういうものを踏みにじってる、っていう表現になってます(なんでこんなほぼ自明なことを書かなきゃならないかわからない)。だからテイラーは怒ってもいいわけだけど、ハードボイルドだから自分の感情は最後の最後まで明らかにしないのですよ(でもノヴァがすごくいいからあてがわれても怒らなくていいかな、むしろラッキー、ぐらいに思ってる可能性も大きい。白人男性はスケベでいやですね。あと、ノヴァがテイラーに好感をもっている理由の一つは輸血に使われたから、という理由も説明されています)。そしてじっと脱走と反撃のチャンスを待つのです。それが1960年代ハードボイルド白人男性ってものなのです。当時はみんなそれを求めていたんでしょ。そういうのはもちろん批評や批判の対象になる。でも その魅力 もわかってあげるよう努力するべきだとも思うのです。

インタビューの人がこういうことを先生に言ってる。

『猿の惑星』は、猿のほうが女性差別を感じない気がしました。テイラーを保護するジーラ博士は、猿たちに認められていましたよね

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ここはこの映画の核心部分に近い問題を含んでいると思うのですが、先生の答が私には理解できないのです。

  1. 『未来惑星ザルドス』ではエリートが人間らしくない描かれかたをしている、

  2. 『すばらしい新世界』では一般人と下級な「野人」が分けられている

そして『ザルドス』では性差別しない人が人間らしくないように描かれている、『新世界』では女性が出産の苦しみを味わうことがない。そこから「男女の差がなくなることが人間らしくないとされる傾向がマッチョなSFにはある」。

これが『猿の惑星』とどう関係しているのか先生の思考が読めない。

この映画は、私には、 テイラーの物語というよりはジーラ博士の物語 のように見えました。すばらしい観察力、共感、勇気、偏見のなさ、正義感、信頼……エイプより人間らしく、人間よりエイプらしいすばらしい人物じゃないですか。観客がジーラさんの言葉と覚悟にどれだけ救われる思いがするのか。テイラーなんか乱暴で自己中心的なアメリカ白人男性にすぎません。この映画を見た観客は、それぞれの自分なりのジーラになりたい、ジーラの一部ぐらいは自分のものにしたいって思うはずです。ジーラの方がテイラーより人間性もエイプ性も上です。そして、 下等動物ヒューマンに、高貴なるエイプ性を発見しそれを保護し応援しようとするジーラの物語が、保護される方のテイラーの視点から語られている 、ここがこの映画のポイントだと思うのです。

インタビュワーに対する先生の理解しにくい反応についての私の一つの解釈はこうです(あくまで想像です)。「いい組」の代表として女性エイプ科学者のジーラさんが登場するけど、だからといってこの映画が男性中心的・反女性差別的であると判断する材料とはならないよ、みたいな感じですか。先生が言いたいのは、「優秀な女性科学者ジーラ以外の女性エイプが出てこないから、この世界で女性エイプがどう扱われているかわからない。したがって、この映画は女性差別を意識しそれに反対しているという 証拠が十分でない 」なのかもしれません。でもわからない。「能力主義」だとか「貴族的」だとかっていう言葉が出てくるのもよくわからない。(それに、映画のなかのエイプの社会で女性エイプがどう扱われているかという話(エイプ社会の男女平等問題)と、映画制作者がどういう視点で女性ヒューマンや女性エイプを描いているかという話は別だと思う。)

映画を見たあとで考えると、ジーラ博士の彼氏の男性エイプ科学者が、途中で「〜だとは思うけど仮説だし、 証拠が足りない 」とかって言って、(我々からすれば)明白な目の前にある 事実 を否定しようとしているのと似てるな、みたいに思いました。

まあこれはただの印象なので、先生がそういうことを考えているにちがいない、とは言いません。単にこの映画が女性の真理に対する情熱や、正義感、そして共感とケアの能力を高く描きだしていると評価するには、証拠が足りない、描写が足りないという指摘なんでしょう。でも私はあれで十分だと思う。十分感動的じゃないですか。私も博士のようになりたいです。これほど物語の上で大きな存在を、特段に能力が高い特別な女性エイプ、あるいは育ちのいい特別な貴族的女性エイプであって、女性エイプ一般の代表じゃない、と考えてしまうのは、理解はできるにせよせっかくの登場人物を例外的な存在者だ、周辺的な存在だと解釈してしまってもったいないと思います。

「反進化論法裁判のさなかで…」

ここはまあそんな気になるところはありませんでした。たしかに反進化論の人々も揶揄している。そしてなによりも 宗教的/イデオロギー的な信念のために目の前に見えている事実を歪めてしまう人々、そして知識を閉鎖しようとする人々に反対 していますわね。しかし、同時に、そうした閉鎖的な人々が なぜそうせざるをえないと考えているか も描いている。

そして反進化論だけでなく、公民権運動についても、ベトナム戦争についても、冷戦についても、巨額の経費と人命を使った科学開発競争についても、宗教についても、国家についても、人類の未来についても、そして美醜や愛についても、考えさせられる。てんこもりでテーマ的には文句なしの名作ですよ。『ダーティハリー』が映画史的にS級だけど普遍的な力がちょっと足りない、みたいなことを前に書いちゃいましたが、この『猿の惑星』は長いアクションシーンがタルくてその部分はB級だとしても、現代にも通じる普遍的な力を維持しているA級映画です。イデオロギーによって理性を押えこみ、事実を否定し、発言を封じる、そういうのってもう普遍的なもんですからね。いつの時代にも力がある。

ただ最後のこれ。

それにもかかわらず性差別的なのは、やっぱり昔のSFって感じですよね、本当に。開明的なSFって、性差別や性的マイノリティー差別は批判してないことが多いから、そういうことなんだろうなと思います。

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くりかえしますが、この映画が特段に性差別的だっていうのは、私にはあんまり響きませんね。当時としてはまあそこそこ、あるいはかなり進歩的だったんじゃないでしょうか。くりかえしますが、 昔の映画見て「性差別的だ/男性中心的だ」って言うのは簡単 なんですが、どういうふうに性差別的かはちゃんと説明する必要はあると思うんですよ。そして、それがなにとひきかえになっているのか(たとえば俳優の人気度?集客の可能性?)も考える必要がある。さらに、仮に微妙に性差別的だとしても、前のエントリで書いたように、ジーラの人物造形はすばらしく、未来がある。今作られたものならともかく、50年以上昔の映画を評価しようってのなら、そういうのをもっと評価してあげてもいいんじゃないでしょうか。

「動物というメタファー」

もう一つ問題なのがここです。

人間と猿を逆転させて、知性って見方や背景によって変わってくるものなのだからそれを根拠に動物に対して非人道的な扱いをしてはいけないんだ、という話としてとらえることは十分にあり得ると思うんですよ。

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その通り。私は最初これは動物倫理映画だと思いましたね。いまでもそう思ってます。

ところが、そのあとの「ただ、映画で動物の権利の話をするのって難しいんですよね」という先生の論理がわからない。こんな わかりやすく成功している 映画を目の前にしているのに。

『ボーンズ・アンド・オール』はカニバリズムの話だけど、もともとビーガニズムの話だったらしいがぜんぜん気づかなかった、って話が出てきますが、この連載記事のすぐ後ろで「原作は原作、映画は映画」って話をしてるじゃないですか。んじゃわからなくていいじゃないですか。

たぶん動物の権利やビーガニズムのような話を映画で表現するのって意外と難しいんだと思うんですよ。人間にあてはめて人間にわかりやすいよう表現すると、全部が人間世界の話だと解釈されてしまうような気がするんですよね。

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これもわからない。くりかえしますが、なぜ 成功している映画を前にしている のに「難しいのだ」になるのか。「全部が人間世界の話」という表現もわからない。

なにを言おうとしているのかぜんぜんわからない節でした。誰か説明してほしい。

先生と関係なく一つ指摘しておきたいのは、『猿の惑星』のようなタイプの作品でいわれているのは、「ヒューマンもエイプと同じ 能力 をもっているんだから同じ権利(エイプ権/人権)を認めるべきだ、って暗に(そしてジーラ博士によって)明に主張されているんですが、これは「能力」に関しての話なので、んじゃ同じような能力をもたない動物、たとえば馬は使役していいんだな、って話になりやすいんですよね。実際は 少なくとも 同じ能力をもっている存在者は同じように扱うべきだし、そうじゃなくても苦しみを感じる存在者に残虐な行為は控えるべきだ、って主張なんですけどね。

ここらへんにひっかかってなにか言いたいことが言えない人々がいるかもな、とは思いました。あと、まあああいうふうに動物の扱いを考えさせられると、牛さんや豚さん食べてて大丈夫なのか、っていうこと考えなきゃならなくなるから、あんまり考えたくない人もいるだろうとは思いまう。

「「原作はこうだから、映画もこう」はNG」

これはまあそりゃそうでしょうね。でもそれだと、俳優やプロデューサーがこうだから、映画もこう、も言いにくくなる。基本的には映画は映画として、単体で解釈し評価するべきだとは思います。

むしろ、原作はこうだけど映画はこう、というふうに食い違いがある場合に(まず確実にそういう違いはある)、映画製作者たちはなにを考えてそういうふうに変更したのか、を考えるべきだろうと思います。

この『猿の惑星』はずいぶんプロットをいじってるらしいので(ちらっとwikipediaを見たところでは、ぜんぜん違う話にしてる)、それを議論してほしかった。とくに英語の問題ですよね。

「まとめ」

というわけで、『猿の惑星』が性差別的だとか男性中心的だとか、当時の通常のハリウッド映画以上にそうだという確証をわたしはもつことができなかったので、ああいうまとめになってしまうのは残念ですね。そうした問題を考える上でも、もっと作品の内部に入りこんだ感想を読みたかった。そして、それが映画史上に残る名作名画であると評価されているその核心部分に触れてほしかった(作品内部の意味でも、歴史的な意味でも)。

スウィフトの『ガリヴァー旅行記』への言及は適切で、まさにガリヴァーを現代的というか1960年代的にやってるわけなんで、そういう社会批判、社会風刺、そして理想みたいなのをもうすこし紹介してあげてほしいです。名作なんだから、初見でももっと語るべきことはあると思うんですよ。

いったん休憩。私自身の感想は数日後になると思います。(おぼえていたらの話)

英語の話再訪

あ、もと記事に沿って書いてたら書くの忘れてましたが英語がこの映画の核心の謎だって話なんですが、これについてはアンコレ先生という人が記事を書いてます。

「映画「猿の惑星」で、猿が英語を話していた理由」 https://www.anlyznews.com/2024/09/blog-post_12.html

「伏線」という表現が適切かどうかわかりませんが、まあエイプが英語を話しているのには必然性があり、また話を進める上で必要だと私も思います。

あたりまえのことですが、テイラーさんたちが英語で話をしているのはアメリカの宇宙船なので当然というか、あんまり問題がない。アメリカの国威発揚のための探検だとすると全部英語話すアメリカ人になっても問題はない。(アメリカ国旗を使ったお墓作っていて、アメリカは探検隊にとってたいへん重要な国です)

問題はエイプです。最初にエイプが話す言葉が「スマイル!」で衝撃だという話はすでに書きましたが、そのあともテイラー船長とエイプたちは英語で意思疎通をする。最初はテイラーは首をやられて声が出せなかったが、英語はわかるので地面に文字書いたり、ジーラさんのメモ帳を奪おうとしたりして努力する。話をするだけでなく文字も共通なわけです。そりゃもうほぼ確実に地球よね。 馬もいる し(なぜか犬はいないっぽい、犬猿の仲だから?馬と猿は仲がよいのよね。)。

そうでなければ、テイラーさんたちより後に出発したもっとずっと高速な宇宙船が数百年前にこの星に到着していて、人間やエイプや馬たちを植民してなんらかの事情で人間は言葉自体が話せなくなり、エイプたちは英語を修得した、ということになる。

まあ当然テイラーはなんでエイプが英語話して人間が言葉話せないという惑星があるのだ、という謎に直面することになる。これは、仮に宇宙船がまだ使えて、惑星の位置を確認することができて、ここが地球だと確認できても残る謎であることに注意してください。どうも「衝撃のラスト!」とかって広告があったのかどうか、最後に地球だと判明することが重大なことだという理解があるみたいですが、そんなのは実はどうでもよいと私は思いました。ミステリじゃないのです。

「スマイル」や、テイラーがエイプたちと文字でも発語でもコミュニケーションできることに驚かなかった人々だけが、最後に自由の女神を見て「地球だったのか!」と驚く、伏線としてはそういうことですが、まあ 伏線というか作品の前提、基本設定 ですわよね。作品の内部の世界としては、英語使っているのはまったくおかしいことじゃない。

言語が重要だというのはもちろんのことで、 撮影時のスクリプトらしきものを見るとこういう部分があるのです(ツイッタで教えてもらいましたhttps://x.com/ruhiginoue/status/1837732883123130655 )

ZAIUS: You lied. Where is your tribe? (うそつきめ、いったいどこの部族から来たんだ?)

TAYLOR: My tribe, as yo call it, lives on another planet in a distant solar system. (ずいぶん離れた太陽系の惑星だよ)

ZAIUS: Then how is it we speak the same language? (そんじゃ、 **なんでワシらは同じ言葉(英語)喋ってるんじゃ!** 、ごら、ウソつくな、ごら殺すぞ、早く部族の居場所を吐け、全滅させてやる)(うそ)

https://sfy.ru/?script=poa_1968

ただしこの一言「なんで同じ言語?」はどうもいまアマゾンプライムにある日本語字幕版ではカットされてるようで、オリジナルがどうだったかはわかりません。でも、言語の問題が非常に重要なことであることは、脚本の段階では十分に意識されている。むしろ、言語が同じだから長老はテイラーが他の星から来たということを信じなかった。テイラーは理由がわからない。(あるいは、長老はテイラーが、自分たちエイプの文明・文化の起源になっている古代のヒューマンの生き残りであることを意識している。テイラーの他にも、異常個体として言葉を話す人間/ヒューマンは時々いたんですね。)

もちろん最初の最初からテイラーはなぜ英語なのだ、って考えてるはずで、エイプが英語しゃべっってることになんの疑問ももってない、なんてありえないです。テイラーは最初の方で地面に文字書いたりしているし、長老がそれを消したりしている。 なんで登場人物たちは英語に疑問をもってないなんて鑑賞ができるんですか、ってほどありえない。私の勝手な想像では、「衝撃のラスト!」とかっていう感想やアオリ文句を真にうけて、「そこは地球だったのだ!」ということが映画のテーマ・衝撃の オチだと思いこんだ上で この映画を見ないとそういう鑑賞にはらならないと思うのです。この映画は、最後に一挙にすべての謎がすっきり解けるミステリー映画ではないのです。ラストは解決ではなく、暗示にすぎない。まだ鑑賞の能力が発達してなかった子供時代にこの映画を見た人々は、そういう「衝撃」の記憶を残しているかもしれませんし、そういう感想を聞いた人はそういうものだと信じこむかもしれませんが、それは大人の鑑賞態度じゃない。

あと、洞窟探検のシーンで人形を拾うわけですが、最初は「俺たちの世界の少女が猿の人形で遊ぶことはあったが……」みたいなセリフがあり、その人形が古代のエイプが作ったものである可能性を考えながら、「しかしヒューマンの人骨といっしょに出てるので」とかって話になり、さらにはそのヒューマンの人形がなにかの拍子に「ママ、ママ」って喋るっていう設定だったみたいですね。映画でどうなってたのかはよくわからない。「キュー」とかそんな音しか出してなかったような。まあいろんな事情で台本にあったものをカットしたんでしょうね。そういうのは映画というあれこれ時間その他の事情で妥協しなければならない芸術様式ではしょうがないのかもしれない。私は映画に関してはそういう妥協や折衷みたいなのはぜんぜん受けいれちゃう派です。

まあ上の「なぜ我々は同じ言葉をしゃべっておるのじゃ!」の1行のセリフがカットされていてわかりにくくなっているとして、簡単に英語中心主義で平気でいる、って評価しちゃうのはよくないと思いますね。すでに原作と映画の関係に触れましたが、この映画は 原作を大幅に変更 しちゃってるらしく<sup><a id="fnr.13" class="footref" href="#fn.13" role="doc-backlink">13</a></sup>、一番大きいのは、人間とエイプの言語を共通にしたところ、惑星を他の惑星ではなくまぎれもない地球にもどってきたことにしているところ、そして現場を(昔の)北米、ニューヨークのあたりにしていることらしくて、それはご都合主義だけど映画を楽しいものにするにはやむをえないご都合主義であり、むしろ プロットの穴をなくす ためにいろいろ工夫しているわけですよ。SFに限らず映画その他の大衆向け作品にそういうタイプのケチつけようってんならいくらでもケチはつけられるわけだけど、そんなことしていておもしろいですか? 3000年後の言語を想像してわけわからん言葉でしゃべってるに字幕つける?

さすがに、どんなものをつくってもいろいろ酷評されることがあらかじめわかってるハリウッドの製作者が、この程度の仕掛けも考えてないなんてことは考えられないっしょ。 昔の人でも、制作者を簡単に馬鹿にしたらだめだ と思います。

私の「感想」

んで長くなりましたがやっと私自身の感想なんですが、この映画はいくつかのパートにはっきり分かれてますね。

  1. 遭難まで

  2. 惑星探索、乗組員どうしのやりとり、サバイバル

  3. ヒューマン発見、ヒューマン狩り、捕縛

  4. 虐待

  5. 脱走

  6. 裁判、対決

  7. 洞窟調査

  8. エンディング

ぐらいですか。てんこもりのネタが15〜20分ぐらいできりかわっててたいへんシステマチックでハリウッドらしいですね。観客の注意力の限界をよく理解している。私はハリウッド映画のそういうところが好きです。

最初はタルいけどつかみとしてまあOK、搭乗員どうしの会話でテイラーは性格が悪いことがわかる。ヒューマン狩りと虐待(と博士による発見)のところはショッキングでありとてもおもしろい。脱走から再捕縛までのところのアクションシーンはとてもたるくてB級。目が覚めるおもしろさなのは裁判シーンで、ここで エイプ女性博士の高潔さには感動 しますね。裁判映画だとは思ってませんでした。人間だろうがエイプだろうが、黒人だろうが白人だろうが、男だろうが女だろうが、結局は 個人の誠実さと共感 が大事なんですよ! それに対抗する長老たち宗教的指導者たちの邪悪さもよい。残りはまあそれなりだけど、エイプの人たちとテイラーが「証拠」を探しにいく、っていうところが「科学的」でいいじゃないですか。このちゃんと 「証拠」と論理で勝負する っていうのが エイプの人たちと人間たちの間で成立している 。すばらしい。エイプの人たちとテイラーが、会話を交して少し理解しあうのがよい。「大人って勝手だよな」とか「三十代以上のやつは信じるな」とか。長老がテイラーに真相というか自分が本当に信じているところを告白するのもよい。最後の長老の「宿命に出会うのじゃ」とかもオランウータンらしい哲学的な感じがいい。全体としてはまずまず、ぐらいかなあ。

たしかにテイラーは自己中心的・自国中心的・人間中心的ないやな白人男性なわけですが、それがジーラ博士たちに擁護してもらったりしてだんだん自分の偏見みたいなのに気づいていく過程が見所ですよね。ナイスバディ白痴美のジェーン、じゃなくてノヴァさんは魅力的ですが、次第にジーラ博士の方が美しく見えてくるところもいい。

エイプの人たちが、人間がよくやる表情をわかりやすくやってくれてるのもいいですよね。あれ人間でやるとおかしな絵になっちゃうと思うけど、あえてエイプにしているからわかりやすく、そして人間もエイプもさして変わらないと思わされる。そこがこの映画の一番の魅力なんじゃないですかね。メイクとかっていうのでは現在の技術からほど遠い稚拙なものだけど、だからこその魅力がある。

エイプの人たちの動きは、人間の基準からするとそれほど美しくない、わざとそういう演技をさせている、でも一部のエイプたちの知性や信頼を目にすると、そうしたぎこちない動きも愛らしく見えてくる、そういうのもいいじゃないですか。

数少ない女性登場人物、ノヴァかジーラ博士か、っていう選択はおもしろいですね。パートナーにするならどっち選びますか?テイラーさんにはノヴァしか残らなかったけど、選べたらどうしたろう?あなたならどうしますか?女性の場合はジーラ博士とノヴァのどっちかになることを選べるならどうします?

エイプの人たちの間にも種族があって(オランウータン、ゴリラ、チンパンジー)、それぞれちょっと対立さりそうだし気質も違うみたいなのがよかった。あとどの種族も人間っぽい だめなやつや邪悪な奴が含まれいて これもよい。エイプというものはそういうものです。認めましょう。そして我々はまぎれもなくエイプの一員であり、ここはエイプの惑星です。なんとか事実と理性、あるいは論理をよく見て、協力的に、信頼しあうしか道はない。すべての偏見を捨てよ!事実を見よ、論理に従え!っていう強いメッセージには、私は感動しましたよ。ハリウッド製作者に対する偏見も捨ててください。

ラストシーンは、 そこが地球だとわかったから 「衝撃」なわけではない 。地球と強い関係があるのはわかっているし、おそらく地球そのものだろうってのはすでにテイラーも観客も理解している。むしろ、自由の女神像がああいう形になるような仕方で、この地域だけでなく、 おそらく地球全体で人類とその文明がほぼ滅んでいる ことがはっきりししたってのが衝撃なんでしょ。地球の他の地域で人類が繁栄しているならあんなことにはならないだろうし。そして、おそらく確実に、人類自身の手によって(核兵器によって)文明と地球を破壊したのだ、と。そして人類はああいう原始的というより単なる動物、エイプ以下の動物同様の存在に落ちぶれている、おそらく 地球のすべての場所で"We did it!" 、俺たちはやっちまったんだ! They did it! じゃないところに注意ね。おそらく地球をぜんぶ探索しても、アメリカ文化はもちろん、まともな文明は残ってない。俺たちは徹底的に破壊してしまったのだ。

テイラーはなんらかの事情(女性事情?)によって絶望して世捨人になり、義務感から、そしてヒーローになるために宇宙船に乗った。でも人類にはなんらかの期待があり、自分はヒーローになりたいと思っていたのかもしれない。でも最後の最後に、人類はもう滅亡している、それも自分たちの手で滅亡したのだとはっきりした。テイラーの冒険にはなにも意味がなかったのです。それまでエイプたちに対して感じていた優越感は消えうせ、絶望とノヴァだけが残る(ノヴァはパンドラなのかもしれない)。でもまあノヴァを新しいイブにして、他のヒューマンも仲間や奴隷にしたりして、人類を再構築するんでしょうね。イブに苦労させられるのもアダムとしてはしょうがないです。

でも実は人類と文明再生が本当によいことなのか悪いことなのかわからない、なぜなら人類はエイプのなかでも特に凶悪な驕り高ぶったエイプであり、それは他のエイプたちにはない悪徳であり、地球全体を破壊する力をもってるから、とかそういう感じっすか。おまえたちはその傲慢と増長ゆえに、禁断の核兵器に手を出し、20〜21世紀の繁栄の楽園アメリカから追われることになったのだ、お前たちは塵から生まれたから塵に帰るのだ。お前たちは今後も額に汗してその日の食い物を探すだろう。イブはいずれお前を愛し、そしていずれ憎むようになるであろうが、お前はそれに耐え、イブを治めねばならないだろう。お前たちの知恵と知識はお前たちをふたたび豊かにするかもしれないが、お前たちの傲慢はそれを凌駕するものであり、いずれはまたお前たちを破壊するだろう。 それがお前たちのデスティニー だ。いいじゃないっすか。

『猿の惑星』は、 まさにいまこの時点で私たち観客が暮らしているこの地球という惑星 は、 私たち傲慢で凶暴なエイプが支配している惑星だ 、っていう強烈なメッセージを含んでいるわけですね。単に反進化論唱えてる宗教的に頑迷な人々を風刺非難しているだけじゃない。我々の問題なのです。名作です。みんな見ときましょう。

1950〜60年代は霊長類学も急速に発展した時期で、それまで動物園の檻のなかでしか観察できなかったチンパンジーやゴリラを本来の生態系のなかで直接観察するようになり、ヒューマンとの類似性(と相違)がどんどん見つかった時代です。女性科学者のジェーン・グドール博士とか有名ですよね(非常に素敵な科学者でジーラ博士のモデルになってる?)。そして、エイプの人たち(猿じゃないよ!)もわれわれと同じ、人(パーソン)なのだ!っていう発想にまで発展する時期です。(カヴァリエリ他の『大型類人猿の権利宣言』など読んでみてください)冷戦の他に、そういうの科学的知見・道徳的な発見も背景にしている。

(追記)前の『ダーティハリー』についての記事でも書きましたが、北村先生のあの連載の趣旨は、みんなが映画見て好き勝手な感想を言えるようになろう!っていうことだと思うので、そういうのはとてもよい企画だと思いますのでがんばってほしいです。その趣旨に乗っかって、私も映画の感想と「感想の感想」を書いてみました。ただしこういうのが「批評」になるまでは感想から進んで「精読」したりいろいろ考えたりしなければならないことがあるわけで、連載では初見の「感想」から立派な批評へと進化させるところも見せてもらえるんじゃないかと期待しています。

それにまあネットのみんなも、ああいう感想あるいは批評を見て、自分も適当に感想書いたりして映画を見方を自由に交換したいですね。異論や反論があるときもあるだろうけど、喧嘩せずに「へーそういう見方もあるのかー」とかやっていきましょう。そういう感想のやりとりが作品鑑賞でもおもしろい部分でしょ。

とりあえずおしまい。それにしても、映画ってほんとうにいいものですね、それでは、さよなら、さよなら、さよなら。


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