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シュビドゥバとは何だったのか。

海鮮系の居酒屋の前を通り過ぎた時、80年台頃のアイドルソングが流れていた。わたしの耳に流れ込む軽快なアイドルソングの中に”それ”は聞こえた。

華やかなバックバンド。
可愛らしいアイドルの歌。

その後ろに悠然とたゆたう

シュビドゥバ。


人間は意味を求めてしまう生き物だと思う。
赤と白とを区別することによって、人間は「色」という概念は生まれ、タンポポとライオンを区別することに寄って「動物」と「植物」という概念は生まれました。「意味」も、意味のあるなしを判別する必要が出てきたからこそ、生まれた概念なのでしょう。この世の中にカレーといえばバーモントカレーしか無いのであれば、バーモントカレーという言葉は誕生しなかっただろうというのと、同じように。

シュビドゥバ、君は一体どういう意味なんだ。
おおシュビドゥバ、お前はなぜシュビドゥバなの。

大体、「なぜ」という概念だって、理由を一々区別する必要があるから生まれた概念なのではないか。
わたしが思うに、「なぜ」という概念が最初に生まれたのは、人類が生きるのにあまり必死にならなくて済んで、ちょっと暇になった時なんじゃないかと思う。
狩りをひとつするにも、ハンティング中に「お前がマンモスの右から行け!俺は左からまわる!」とか言った後に「え、なんで?」「むしろ上から行ったほうがよくね?」とか一々話していられないと思うし。後から一々反省会を開けるようになったり、狩りの人数が増えたりして余裕ができたぐらいから生まれたんじゃないかなって。ほら、古代ギリシャの哲学だって、哲学は暇な人(=位があったりして余裕のある人)がやってたらしいし、「なぜ」なんていうのは暇の証なのかもしれない。

シュビドゥバ、シュビドゥバ。

わたし自身も漠然とした不安とか悩みが噴出してくるのは大抵が「暇な時」だ。目標がないとか、今目の前にやることがないとか、そういう時に「なぜ」で心が埋め尽くされてブルーになる。すべての「なぜ」が無益だとは言わない。明日につながる「なぜ」はいっぱいある。わたしは「なぜ」が好きだ。

だがシュビドゥバ、お前はなぜシュビドゥバなのだ。

生きることには最初から理由は与えられていない。後から人が理由をつけるんだ。だからシュビドゥバにだって意味は無い。絶対に無い。それでも何なのだと考えてしまう。理由は人を安心させる。そこに理屈があれば多くの人が納得をする。人は何かに理屈があり、筋道だっている様子に快楽を感じる思考回路ができているのかもしれない。人間が言葉と理性を使うことで生物界を生き残ったというのならば、生存戦略として、そこに快楽を感じるように遺伝子レベルでプログラミングされてもおかしくない。

シュビドゥバに意味を求めてここまで書いてしまったけれど、きっと今日のシュビドゥバはそのためにあったのかもしれない。シュビドゥバとは、何処へ行ったら良いのかわからない人でもとにかく駆り立て、歩かせ、そしてそこから何かを生ませる魔法の言葉だったのかもしれない。

わたしはきっと、またシュビドゥバを聴き、その度に違うことを考えるのでしょう。

シュビドゥバ、シュビドゥバ。

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