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S(最近)N(なんとなく)S(ストレス)

昭&令

もうあと30年早く生まれたかった。
年々暑くなるし。消費税はいつの間にか2桁だし。物はどんどん無駄が排除されて"便利"になって、人間をますます怠惰にする。何をするにも速くてコンパクトで簡単で素晴らしい。そのうち一瞬で満腹になる薬とかも登場しそう。食べる時間をも惜しむ未来人たちは、その時間を一体どんな"素晴らしいこと"に費やすんだろう。最近は若者(おまえも若者な)の間で、年々暑くなっていく気候を受けて、これから自分たちが生きていく未来の行く末を憂いて鬱になってしまう人が多いらしい。

なんか、わかる気がする。

連絡手段も家電で、駅には伝言用の黒板があった時代に戻ったら、私は不便だとブチ切れるんだろうか。会いたい人に気軽に会えなくなって絶望してるんだろうか。そんなことない。と言いたいけど、おそらく発狂する。私はもう"便利"を知ってしまったから。この四角い板がないと生きていけなくなった。こんな小さな板で世界を把握した気になってしまう。手に持っていないと落ち着かないなんて、中毒以外の何物でもない、強烈な呪い。
でも、もし昭和にタイムスリップしたら、本当に会いたい人にだけ会いに行くんだと思う。本当に話したい人とだけ話すんだと思う。本当に大事なことに時間を費やすんだと思う。"便利"さによって生まれたはずの私の膨大な時間たちは、一体どこに行ってしまったんだろう。私には、時間がない。膨大な時間を手に入れたはずが、散漫になった。多すぎる情報に私の意識を人質に取られている。あれもこれもそれもどれも全部。薄くて広い情報に脳が侵食されていく。

Twitterは、実態だけを伏せて、心を晒す。みんな自ら望んで晒す。なにも知らないはずの相手の、"ものさし"、日常、今日の夜ご飯、理想、今の気持ち、愚痴、好きな人のこと、美談、武勇伝、正義感、とっておきの過去。情報が一気に脳に流れ込んでくる。そして、その人を理解した気になる。この人はこういう人。あの人はああいう人。この人好き。あの人嫌い。私がそう思うのと同様に私も好かれて、嫌われる。

フォロワーの数は銃口の数だとも言うけど、気の強さのようなものもある気がする。SNSではハッキリとした強い意見がよく通る。通るというのは、ウケがいいということ、いいねが多いということ。語尾を誤魔化したツイートよりもわかりやすい断定のツイートがよく伸びる。その人の思想がぎゅっと濃縮された140文字。短時間で多くの人が理解できるもの。それっぽく見えて人の脳内を蝕んでいくもの。それは複雑さとかではなく、意見が明快か否か、それだけ。マジョリティーは見えやすい。こんな世界に正解があると信じてしまう。どこを探したってここにはそんなものないのに。そしてそれはそれを越えようとどんどんエスカレートする。自分だけの何かを見つけようとして思想が凝り固まっていく。濾過して濾過して濾過して、網に残った方。人を見て思ったのではなく、私の中にこれが芽生えていくのを感じた。

頭おかしくなる。本来知り得ないはずのものに、こんなにも簡単にアクセスできる。情報が、多すぎる。でも、もう日常だからだれもなんの疑問も抱かない。城壁で固めたはずの個人の城に、人が簡単に土足で出入りできるようになった。難攻不落の城を築くのは至難の業になった。誰にも邪魔されないはずだった秘密の城。大好きなものだけで満たされていた自分だけの城。大事な大事な私の城が、私だけのものじゃなくなるのを感じた。私は自らの手で私の城を破壊しようとしていた。




私はこう思う
私はこう思う
私はこう思う
私はこう思う
私はこう思う
私はこう思う
私はこう思う
私はこう思う
今日はこんなことを成し遂げた
今日はこんなことを成し遂げた
今日はこんなことを成し遂げた
今日はこんなことを成し遂げた
今日はこんなことを成し遂げた
今日はこんなことを成し遂げた
私ってこんな人間で
私ってこんな人間で
私ってこんな人間で
私ってこんな人間で
私ってこんな人間で
私ってこんな人間で
私ってこんな人間で
私ってこんな人間で
私のセンス
私の言葉選び
私の感性
私の考え方
私の価値観
私の愛
私の洞察力
私の優しさ
私の生き様
私の表現力
私の生活
私の
私の
すごいでしょ ほら
見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て見て





私はこれを、一日中見て、一日中発信していた。
そりゃ疲れる、だってあそこには欲しかない。
漢字一文字で表すと、まさに「蠢」だ。
肝心な推しのことは、一体どこへ?



貪瞋痴

全部お前のせいじゃねーか

そう、その通りです。ご名答。私が自ら色々晒してるからこうなるんです。
ここまでイライラさせてしまってすみません。
まあでもこう思う人はこんなもん読んでないですね。ここまで読んでくれたあなたへ、お付き合いさせてしまってすみません。
SNSの短所をあげましたが、こんな風に使ってる人ばかりじゃないでしょ。もっと頭のいい付き合い方をしてる人は沢山いる。完全に私の使い方がいけない。私の色眼鏡が執着がいけない。私の弱さの問題です。私はいつからか人を分類するようになってしまった。私はたった"それだけ"で人を判断するような人間になってしまった。私の自意識はどんどん肥大化していった。自分の好むものをむさぼり求める「貪」、自分の嫌いなものを憎み嫌悪する「瞋」、ものごとに的確な判断が下せずに、迷い惑う「痴」。私にはこの三毒が全部あった。無意識とはいえ、それも私だ。SNSに疲れた、というより、そんな自分に辟易してしまった。

断捨離

私は備忘録としてTwitterを使っていた。ミンギュと一緒に(概念)生きる時間を1ミリたりとも逃したくないと思っていた。刹那的な感情もミンギュのちょっとした言動も全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部残しておきたかった。それがないと今ミンギュを推していることにならないと思ってたから。文明の利器のおかげで、時を超えていつでもいつのミンギュにでも会いにいけるようになった。つまり、今日のミンギュはあとからいくらでも見返せてしまう。だから、今のミンギュを見た今の私が今言葉にしないと意味がないと思っていた。同じ映像でも実感と思い出があるとないとでは、感じ方が違うと思っていたから。細かいところまで全部拾ってひとつ残さずコレクションすることが好きってことなんだと思っていた。断片を必死にかき集める私の手からこぼれ落ちた感情は、最初からなかったものになってしまうと強迫観念に駆られていた。
でも、私の大事な人が言った。こぼれてしまっても、また掬うためにこぼしたことにするのはどうって。本当に大切ならきっとまた掬える。肩の力が抜けて、力んでいたことに気づいた。安心した。だから、勇気を出して、愛、のようなものも断捨離してみようと思った。

断捨離。やってみるとすごく難しい。でも単に捨てるだけの行為じゃない。残ったものをより大切にするための行為だ。たくさんの好きな物に囲まれた乱雑な部屋の中から、本当に大切なものだけを見抜く。よーく考えないとできない。そのシンキングタイムは、物について考えているようで、実は自分の内面と向き合うための時間だ。常に拡大へと向かう資本主義を逆走する、革命的行為。

"あれもこれも魅力的 でも私は君がいい"
断捨離は、"君"を大事にするための魔法だ。私はたくさんかき集めておいて、すべてを乱雑に積み上げていた。集めた感情たちを、大切にしてあげられなかった。私の城は、ぐちゃぐちゃだった。集めることがゴールじゃないのに。愛着というより、もはや執着だった。私の城も、断捨離しなくちゃ。大事な愛着のために、執着を捨てる。手始めに、執着し続けたアカウントを手放そうと思った。ミンギュと一緒に(概念)生きるというのは、こんなところにしがみつく事じゃない。

"あれもこれも魅力的 でも私は君がいい"
君じゃなきゃ、ミンギュじゃなきゃいけない。
ミンギュだけが残った私の城の窓には、眩しい日差しが差し込む。
誰よりもミンギュを好きだとなぜか証明したかった。でも他人なんて関係ない。私の城には、絶対にミンギュしか入ることはできない。


王子さま

推しとはなんだろうと、よく考える。
その前にまず、私的推しという言葉の定義について。
推しという言葉を使うととても一般的に聞こえる。
数ある選択肢のうちの一つのような、自分の人生の飾りであるかのような。
でも私はそういう意味を込めていない。むしろあえて一般的な呼び方をしようと思う。私からのミンギュへの距離、それを表す言葉。自戒。←知らんけどの類語
一般的に見て私はおたくで、ミンギュは推し。どんなに好きだろうが熱量がどうであれ何年好きであれそんなもんは関係ない。推しとおたくだ。特別でもなんでもない。私は星の数ほどいるありふれた存在。そういう意味。

もちろん理屈抜きの存在であることは、確かだと思う。推しが推しであることに、理屈なんてない。なんでかわからないけど、顔を見るだけで救われる。涙が出る。笑顔にしてくれる。○○だからあの人が好き、ではなく、あの人だから、好きだ。
でも私はあえて言葉にするなら、推しは「誰も入って来られない私の城に、入ることができる人」だと思う。
自分のお気に入りのもので満たされた私だけの城。外界を遮断して、そこに閉じこもり、あれやこれやと考えるのが好きだった。
そんな所に、私の推しは、ミンギュは、ある日突然入ってきた。全然不快じゃなかった。城にいながら私のすべてを忘れさせてくれた。私の城にある大事な感情たちは、ミンギュに全部あげたいと思った。持ち前の面倒見の良さと生活力で、荒廃した私の城をせっせと掃除してくれた。曇っていた窓をピカピカにしてくれた。空の色はこんなにも綺麗だったのか。終いには、ミンギュは城に閉じこもる私を城の外に連れ出した。こういう文脈で、ミンギュは私の王子さまだった。
ミンギュは私に太陽の眩しさを教えた。風の気持ち良さを教えた。海の広さを教えた。空の青さを教えた。行ったことのない所に、たくさん連れていってくれて、色んなことを私に教えてくれた。
でももちろんミンギュはそれを知らない。無自覚王子さま。

天国と地獄

half-empty/half-fullとは言い得て妙だった。コップの半分まで入った水を見て、「半分しか入っていない」と思うか、「半分入っている」と思うか。空っぽだった私のコップにミンギュが汲んでくれた水を、「半分しか」なんて思うわけがなかった。ミンギュは私の世界の捉え方を変えた。なんてことない景色すべてが愛しくなるって、こういうことか。パンを食べないきつねが、金色の麦畑を渡っていく風まで好きになるのはなぜか。ミンギュが言ったたった一文を読んで私が泣くのはなぜか。ミンギュが私の世界のすべてを意味づけた。ミンギュがいるなら이런 빌어먹을 세상 も愛したいと、私に思わせた。地獄ですら生きていきたい。全然そう思った。
例えば、こんな地獄。

でも地獄があって、初めて天国があるとミンギュは言う。地獄ではミンギュの笑顔が本当に沁みた。歌詞の意味について改めて感動することが増えた。地獄との対比でミンギュがより輝いて見えた。地獄がないと天国もないなんて、皮肉すぎるよね。でもそういうの、結構嫌いじゃない。

楽園天国

どこかにすべて思い通りの星があると思っていた。私が星の王子さまだったら、思い通りの星に出会うまで永遠に星々を徘徊してしまっていたと思う。どこかに理想の星、”楽園天国”があるだろうと。
税金がなくて、食べても食べなくても良くて、寝ても寝なくてもいい、会いたい人に会いに行けて、明日のことなんて考えなくていいマイヘブン。

でも、違うと思う。そんな星はどこにもない。
税金にブースカいいながらビールを飲める友達がいたらそれでいい。なんも食べたくないな…と思ったときでも、好きな人たちとならなんだかんだ食べれる。寝なきゃーと思いながら夜な夜な話せる相手がいるのは、寝不足だけど心は満たされるはずだ。会いたい人に会うためなら地獄をも駆け抜ける。明日のことなんて考えたくないと思っていた私に、明日を楽しみにさせる存在がいる。"楽園天国"は地獄の中から見つけるものなんだろう。ずっと私のそばにある。だから、見つけるのは私次第。逆も然り。それか、いい子にしか見えないのかもね。

かつて私の"楽園天国" だったあのアカウントは、少し息苦しくなった。外界はなにも変わってない。私の感度の問題。物事との距離をすぐに詰めてしまうのが私の悪い癖なので、少し俯瞰で見てみようと思う。

この前飛行機に乗ったら、全部が小さく見えて、笑えた。そりゃサン=テグジュペリはこの世のからくりをうまく見抜く訳だ。私も飛行機に乗って、自分の世界を俯瞰で見てみようっと。


あともう30年早く生まれたかった。
でもそしたらミンギュのこと知らなかったかもしれないから、やっぱやだな。

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