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もっと楽に生きる極意:高望みはやめよう理論(3)

最近は、「高望みはやめよう理論」を鋭意、実践・実験しています。

この「高望みはやめよう」という話は、薬師寺で43年間修行を続けできたという大谷徹奘(おおたに てつじょう)氏から、2023年12月に聴きました。

話の中心は、次の3点セットでした。
① 下手からはじめよう
② 高望みはやめよう
③ 少しずつ上手になろう

これに突き刺されるものを感じて、それ以来ずっとほぼ2か月の間、過去のさまざまな場面を思い出しつつ、この説を検証しています。

すぐに思い起こされたのは、わたくしの高校時代のことでした。

語るのも憚れるのですが、高校時代、とくに1年生、2年生の頃は、精神的にはズタズタの状態でした。

新聞奨学生として新聞店に住み込んでの働きながらの生活が苦しいものであった、などということではありません。

本当は、焦り、怒り、不安、失望、責め、といった感情が渦巻き続け、息をするのも苦しいほどの日々だったのでした。

それが何故なのかさえ、その渦中にいるときは分かりませんでした。

50年も経てた今にして思えば、それは自分自身に高望みしていて、その理想から遠く隔たっている自分が受け入れられない、そういうことだったのだと冷静に受け止められます。

なぜ自分自身を生き地獄に突き落とすほどの「高望み」をしていたのか?

それは初めは美しい希望、自分自身への期待でした。

小学・中学のときは、開校以来の秀才とか言われ、スポーツ万能、オール5で生徒会長、何をやっても上手い等々と褒められ続け、(ひょっとして俺は相当な人物になるんじゃないか)などと潜在意識レベルで思い込んでしまったのでした。

あんなレベルの低い田舎の学校でそれが何なんだ!、バカバカしい!、と顕在意識では思っていたものの、恐ろしいことに潜在意識では違っていたのでした。

勘違いも甚だしいのですが、未熟な少年にありがちな幼い過ちと言うべきでしょう。

本当の問題は、それは高望みであったことを自覚できなかったこと、高望みをやめて、下手からはじめる、少しずつ上手になるのがいい、と発想を切り替えられなかったことです。

走り高跳びで、1m50しか跳べないのに、2mにバーを置いて、何度やっても跳べない、跳べないどころか届きもしない、・・・・諦めてバーを下げればいいのに、バーを下げるという考えが思い付かず、いつまでも跳べなくて自己嫌悪を繰り返している。

例えて言うなら、そんなようなことでした。

笑っちゃうしかない馬鹿げた生き様と思うでしょう。

しかし、世間には、自分に期待し、周囲にも期待され、当然その期待に応えられると自信を持って努力を重ねているのに、いっこうにうまくいかず、焦り、いらだち、歯ぎしりし、苦しみまくっている人が相当な数いるんじゃないかと思われます。

ことにスポーツの世界では、天才と称され、自分でもそう思い、しかしなかなか芽が出ず、ひどい精神状態に追い込まれ、地獄の苦しみを舐めている事例がいっぱいあるのではないかと思うのです。

潜在意識の底の底にある自分への「高望み」。

これに氣付いて、これを書き換え、自分をもっと楽に生きていける状態にしてあげること。

それがあっさり楽々できたなら、これは極意というべきでしょう。

しかし、これはとくに若いときは非常に難しいと思われます。

何度も苦しい酷い目に遭ってようやく自覚するとか、メンターに逢って心の有り様を根底から洗い直すといったような荒療治でもしないとなかなか変えられないようです。

しかし、極意塾は、およそ誰でも、すぐに簡単にできる方法を提唱し実験・検証する塾ですので、難しいと言って終わりにするわけにはいきません(笑)。

ただ単に、「それって高望みじゃないか?」「高望みはやめろよ!」「下手から始めろ、今は下手なんだから」「少しずつ上手になればいいんだ!」等と事ある度に自問自答する。一日何十回でも、何百回でも。

これだけでも、かなり効果があるようです。自分に期待し、自分を責めてしまう癖を直し、もっと氣楽に目の前の事に精出すことができるようになるでしょう。

高校時代の自分自身に、そして高い自己像を描いているがために苦しんでいる若者に言いたいことです。

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