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高岳親王の伝承の虚構と歴史から消された高岡氏 -『日本三代実録』の原文を読む

土佐市の歴史の問題点は、何と言っても高岡氏の存在がないことである。高岡氏についての研究が欠落していて、市民の自己認識(アイデンティティ)の中に高岡氏を位置づけられず、近世兼山以降の浅く薄い記憶だけに拠っている点だ。教育委員会の怠慢である。古代の高岡氏の存在は、日高村の郷土史家が研究して説明していた。『鎌倉殿の13人』を見ても分かるとおり、三浦氏、足立氏、比企氏、大庭氏、伊東氏と、古代中世の豪族たちは根拠地を一族の名に冠している。秩父氏、熊谷氏、河越氏、豊島氏、江戸氏、葛西氏、千葉氏、等々、首都圏に暮らす者は吾妻鏡の世界が楽しい。なるほどと膝を打ち、住んでいる土地の遠い昔に思いを馳せる。土佐国にも、安芸氏、曽我部氏、曾我部氏、本山氏、津野氏などがいる。律令以前の土佐には波多氏(波多国造)と土佐氏(都佐国造)の二氏がいた。

高岡郡を独立させ、その名を国家の行政区画として確立させ、地名を永久に残した高岡氏。その存在と業績が忘れられている。何度も述べてきたように、高岡郡が誕生するのは841年の続日本紀で、土佐国の中で最も遅い郡の創設だった。西に幡多郡がすでにあり、中央に土佐郡が置かれ、東に長岡郡、香美郡、安芸郡が営まれていて、土佐郡の西の一帯が広い広い吾川郡だった。仁淀川以西の地は未開拓のフロンティアだったのである。仁淀川を渡ったすぐの場所に、土佐二宮の小村神社が建てられた。想像すれば、当時の小村神社は、秀吉の肥前名護屋城と同じで、征服先に侵略を進める暫定新都で幕僚宿営地だったのではないかと比喩が浮かぶ。豪族たちが集まり、西の現在の須崎市・津野町・四万十町の地や、北の佐川・越知・池川・別府方面をどうやって支配統治するか、軍略を練っていたのだろう。

そこに政変が起こり、吾川郡吾川郷の支配者たる主豪族(仮に吾川氏としよう)が倒され、新興の高岡氏が実権を握るのである。首府を南の高岡の地に移し、仁淀川以西を新たに高岡の名で独立させてしまう。クーデターが起き、土佐国に organization change が発生した。政変は奈良期から平安初の頃だろうか。支配者だった吾川氏(仮)は滅び、正統だった小村神社は思想的影響力を失い、代わって神仏習合の新宗教たる松尾八幡宮が高岡郡高岡郷の中枢神殿となる。以下、松尾八幡宮について考察を加えたいが、本来、この神社は高岡神社という名前が付いていてよさそうなものだ。それなら分かりやすく、私の試論も頷きやすい。けれども、不思議なことに、高岡神社の名の古い神社は窪川台地(四万十町)の上に建っている。高岡氏が、ヤマトタケルのように西征して台地(久礼坂)を駆け上がったのだろうか。

私は長い間、「高岡」とは窪川台地の意味であり、高岡郡の原点すなわち初発の中心地は窪川にあったのだろうと思ってきた。そう推定した理由と根拠は高岡神社の実在である。中央の土佐(都佐)と西の幡多(波多)の間に立ちはだかる、交通を遮断するぶ厚い邪魔な天然の壁たる、高く大きな岡=台地の地形を、古代人が「高岡」と呼んでいたのだろうと考えていた。だが、それは誤解だと気づいた。


松尾八幡宮の由緒についてネット上に説明があり、神社の説明板が丁寧に拾われて紹介されている。引用しよう。

当社は約一千百有余年の昔、人皇第51代平城天皇の第3皇子高岳(たかおか)親王が創建されたと伝えられている。高岳親王は幼くして皇太子に即位され、次の天皇が約束されていた尊貴の人であられた。しかし、大同年間、薬子の乱(810年)が起こり、親王は追われる身となった。やがて仏門に入り弘法大師空海に師事、諸国を行脚し、人心の救済と求道一筋の道を歩んだ。貞観3年(861年)3月、南海道に向かい海路をもって仁淀川の川口に至り更にさかのぼり、高岡の地に上陸の第一歩をしるしたという。(日本三代実録)

問題はこれだ。私も同じ説明内容を小学3年の教室で受け、松尾八幡宮と土佐市の古代史を理解してきた。この伝承を通説としてきた。おそらく、中世以降の、土佐市の地に住み生きてきた全ての人々が同じ歴史認識だっただろう。何百年間にもわたって、高岳親王と高岡(今の土佐市)を結びつける歴史認識を反復させ、素朴に信じ込み、自己認識(アイデンティティ)として固定させてきたのだろう。実際には、この伝承=歴史認識が間違いなのである。高岳親王を由緒として持ち出したのは、単なる(日本人の好きな)語呂合わせに過ぎない。牽強付会である。高岳親王と高岡とは何の関係もない。薬子の変の高岳親王は、一度も高岡の地には来ていない。清滝寺へ立ち寄って滞在・修行などあり得ない。高岳親王についてのネット情報を確認するといい。どの情報を探しても、土佐や高岡と関連づける記載はない。

親王は、貞観3年(861年)62歳のときに奈良を発って九州に入り、翌貞観4年(862年)63歳で入唐を果たした。燃えるような宗教的情熱の人で、長安から海路天竺に渡ろうとして途中マレー半島で客死した。冒険記を澁澤龍彦が小説に書いている。わざわざ土佐に立ち寄る余裕など親王にはない。澁澤龍彦の作品も読んだが、そうした記述は一言もなかった。薬子の変(810年)では大量の皇族と摂家が処罰されたが、関係する一人の王子が土佐に流されている。おそらく、その王子の配流と関連させてこのような伝承が作られたのだろう。810年の頃は現土佐市の周辺も激動期で、何かが起こっている。ここから、問題の『日本三代実録』の確認と検討に入ろう。インターネットはありがたい情報装置で、実際に『日本三代実録』の原典が掲載されている。全編漢文表記だが、アクセスして読むことができる。

《卷四十元慶五年(八八一)十月十三日戊子》○十三日戊子。是日。頒下所司曰。无品高岳親王、志深眞諦、早出塵区、求法之情、不遠異境。去貞觀四年、自辭當邦、問道西唐、乘査一去、飛錫无歸。今得在唐僧中〓申状稱。親王先過震旦、欲度流沙。風聞。到羅越國、逆旅遷化者。雖薨背之日不記、而審問之來可知焉。親王者、平城太上天皇之第三子也。母贈從三位伊勢朝臣繼子、正四位下勳四等老人之女也。〈云々〉。」去大同五年、廃皇太子。親王歸命覚路、混形沙門、名曰眞如、住東大寺。親王、機識明敏、学渉内外、聽受領悟、罕見其人。稟受三論宗義於律師道詮、稍通大義。又眞言密教、究竟秘奥。門弟子之成熟者聚、僧正壱演爲其上首。詔授傳燈修行賢大法師位。

親王、心自爲、眞言宗義、師資相傳、猶有不通。凡在此間、難可質疑。況復、觀電露之遂空、顧形骸之早弃、苦求入唐、了悟幽旨、乃至、庶幾尋法天竺。貞觀三年、上表曰。眞如出家以降、四十余年。企三菩提、在一道場。竊以。菩薩之道、不必一致。或住戒行、乃禪乃学。而一時未遂、余算稍頽。所願、跋渉諸國之山林、渇仰斗薮之勝跡。勅依請。即便、下知山陰山陽南海等諸道、所到安置供養。四年奏請。擬入西唐。適被可許。乃乘一舶、渡海投唐。彼之道俗、甚敬珍敬。親王、遍詢衆徳、疑〓難決。送書律師道詮曰。漢家諸徳、多乏論学、歴問有意、无及吾師。至于眞言、有足共言焉。親王、遂杖錫就路、□脚孤行。(日本紀略)」

意味を正確に判読することは難しいが、この『日本三代実録』の元慶5年10月13日条の部分が、高岳親王の歴史の原テキストに他ならない。学者や作家たちが精読を重ねて高岳親王の実像に迫ってきた。ご一読いただいてお分かりいただけるように、仁淀川の河口から高岡の地に上陸しただとか、土佐に逗留して布教しただとかの文言はない。記述の中の「下知山陰山陽南海等諸道」の一節を切り取って、松尾八幡宮の「由緒」とする作り話の創作・濫用に及んだものと推測する。私が言いたいのは、テキストクリティークの必要性である。史料批判の態度である。土佐市教育委員会は、果たして『日本三代実録』の原典に直接当たり、その上で、俗説である松尾八幡宮の「由緒」の妥当性を検証してきたのだろうか。そうした教育課題意識と知的探求心を持ち、研究作業に取り組む郷土史家は一人もいなかったのだろうか。

原書のテキストがネットに載っているのだから、誰でも史料批判と考証議論に参加できる。そういう時代だ。市民の中で『日本三代実録』を実際に読み、日高村や旧春野町の郷土史家の研究成果に触れて啓発された者がいれば、古代の高岡郡創設と松尾八幡宮の建立について新説提示に及ぶ者が出ただろう。結論を言えば、高岡氏の存在と活躍を想定するしか説明できない。合理的で納得的な高岡(土佐市)の歴史像が描けない。松尾八幡宮は仁淀川の岸辺の丘の崖に建っている。当然、古代には堤防はない。おそらく、神社は河川交通の見張り所を兼ねていたのだろう。そして、吾川郷旧本拠(今の日高村:小村神社:7-8世紀の吾川の郡衙)に近い。高岡へのアプローチに位置する。私は、原初の松尾八幡宮は高岡氏が建て、神仏習合の新スタイルの、草創期の武士勢力が担ぐ新興の教義の神社に再編したものと仮定する。

仮にそうであったとして、それでは、なぜ高岡氏は歴史から消されてしまったのか。その設問への理論的解答がセットで必要となる。そこがよく説得できなければ、高岡氏説の提唱と議論は意味を持たない。この謎も、自分なりに思考を重ねて着想と持論を得た。日本史全体の動きと関係している。歴史とは仮説の構築だ。常識化されている定説の分析と検証だ。通説と俗説を疑って、直に史料や研究書を読み込む挑戦の試みだ。


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