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カンニング竹山の番組出演オファーとその顛末 -「亀泉」の宣伝と新居の歴史を話したかった

5月22日夕方、カンニング竹山の番組スタッフからメールが来た。カンニング竹山がネットでニュースチャンネルを開設する次第になり、その番組の一発目の話題としてニールマーレ問題を取り上げるので、ゲストとして解説して欲しいという依頼だった。収録の時間は1時間ほどで、場所は渋谷のアベマタワーズの5階か、神宮前のスタジオという設定。カンニング竹山は誰でも知るマスコミ芸能界の超有名人で、ABEMA TIMIES で昨年までニュース番組を制作配信してきた。人気者で影響力がある。何度かラジオで話を聞いたことがあるが、私の印象もよかった。今回、独自に YouTube で新番組を設立し、その最初のテーマとしてこの問題を取り上げ、私を解説者にゲスト出演させるという。私にすれば、ありがたいコンタクトとオファーが飛び込んできた瞬間だった。

いかなカンニング竹山といっても、独立で YouTube の番組を立ち上げ、それが世間で人気を博し、目標としたビューを稼ぐのは至難の業である。関心高い旬の題材にフォーカスしなくてはならず。最初の一発目で評判をとることが肝心だ。だから、彼がニールマーレ問題を立ち上げ時のテーマに選んだのは正解だった。解説者として私を選んだことも十分にリーズナブルな判断だと思う。私は現地の事情を誰よりも知っていて、私のところには現地の生情報が矢継ぎ早に寄せられている。飛行機代を出して取材に行かなくても、目をつぶってでも現地を歩ける。ただ、オファーが来たのは5月22日で、それは、ヨッピーの記事が出てバズった24日の2日前だった。ヨッピーの記事の前と後とでは、この問題をめぐる状況は大きく変わり、世論の見方は元に戻っている。

先週より、私のところには、土佐市と全国のニールマーレ支持派から、イナゴのような狂暴凶悪な軍団の粘着攻撃が続いてきた。しばき隊の卑劣な集団リンチを彷彿させる、嫌がらせ、誹謗中傷、挑発、侮辱、脅迫の数々が、これでもかと尽きることなくリプライやリンクで襲いかかってくる。B29の絨毯爆撃の連続であり、ブロックの対処で腱鞘炎を発症しそうだ。陰謀論、デマ、妄想、と決めつけた、憎悪をこめた罵倒ツイートが投げつけられ、それがタイムラインに浮かぶ。木村花の事件が起きた原因がよく分かる。普通の人間はメンタルを壊される。法的措置の脅しで縛りをかけて私を黙らせた後、即、ヨッピーを呼んで記事を書かせ、一気に世論の流れを変え、私を袋叩きにしたのは、ニールマーレ側の「見事な」戦術の成功だった。県知事の裁定を引き出す流れまで作った。

私の現在の立場は、反ニールマーレ派の頭目と見なされている。理事長に代わって悪玉の象徴になり、ニールマーレ支持派からサンドバック攻撃を受ける憎悪の標的になった。ヨッピーの記事が出て空気が変わった後、果たしてカンニング竹山が、私を新番組のコメンテーターとして呼んでくれるかどうか、その期待はいささか楽観的すぎやしないか、先週後半は一抹の不安を持って進展を見守るしかなかった。

23日以降、番組プロデューサーからのメール連絡があり、本番へ向けて事務的な詰めのやり取りが交わされ、28日にプロデューサーからの申し出で、30日夕刻に渋谷アベマタワービルで事前打ち合わせと決まった。29日に寄越したメールでは、先方はこの仕事の日程をひどく急いでいて「事象の鮮度を鑑みてできるだけ早く収録したい」と言い、何と、31日の深夜22時頃から収録本番という急な段取りになった。

私の方も、この制作配信の実現を一刻も早くと熱望する立場であり、ヨッピーの扇動によって泥塗られた悪評と汚名を挽回するべく、カンニング竹山の番組出演は絶好の機会になると考え、31日深夜の撮影を応諾した。「事象の鮮度を鑑み」の動機はよく分かる。カンニング竹山が当該事件を扱って編集発表する前に、誰かが先に横取りする可能性は十分あるのだ。みんなこの問題に熱中している。特にネットニュースに携わっている者は、この問題でバズりを達成して成功を得たい。インパクトのある動画記事の投擲をすれば必ずバズる。大きなビジネスチャンスだ。ニールマーレ時事で市場ができているのである。

30日午後5時半から、渋谷アベマタワービルの11階フロアで、2名の番組スタッフを相手に「打ち合わせ」を2時間やらせていただいた。彼らが知りたい問題点と疑問点を質問し、私の見解と解説を聞き、私がずっと話しまくるという進行になった。声が枯れた。彼らが知らないであろう極秘ネタや、彼らが全く知らない市のバックグランドとステイタス(経済・政治)や、現地の一部以外誰も知らない市長選の裏側についてもリアルに具体的に掘り下げて説明した。翌31日の撮影本番を意識しての解説の中身のつもりだった。

「打ち合わせ」の後半、彼らの顔色が徐々に変わり始め、突然、今回の話はボツにさせていただくと結論が示された。もう十分話は聴き取ってお腹いっぱいという表情だった。撮影は明日夜(31日)と決まっていたはずだが、急に、この件はボツとい対応になった。「制作の観点をよく整理できないので」とも理由を言った。私はすぐ「騙されたな」と直感したが、もう後の祭りで、辺見庸が苦々しい口調でよく告発しているマスコミの汚い常套手段だと悟った。まんまと嵌められてしまった。

プロデューサーは、ヨッピーをよく知り、高く評価してしている業界の人物で、「打ち合わせ」の途中から、そのことを隠さない態度を標榜して行った。どうやらニールマーレ側ともコンタクトしているフシがあり(それは別に構わないし報道編集者として当然だが)、徐々に会話の雲行きが怪しくなり、ひょっとして、と私は彼らを疑うようになった。最後に懸念が的中し、私はバカを見た結果になった。よくあることだから気をつけろと辺見庸が言っていたが、直にぶざまに体験して失敗する羽目になった。皆さまも教訓にしていただきたい。

30日夕刻の「打ち合わせ」の場に、私は、土佐市の銘酒『亀泉 Cell』を持参し、プロデューサーに進呈した。銀座のアンテナショップ『丸ごと高知』でずっと長く月間販売ランキング1位を続けている酒である。当日に当店の地下1階で買った。土佐市の誇りだ。カンニング竹山との収録は、テーブルにこの『亀泉』を置き、撮ってもらい、『亀泉』の説明から始める予定だった。そう提案した。いまこの問題に関わる河川改修工事で全国的に有名になった、波介川の上流で醸造している。抜群に美味で、女性好みのフルーティな味で、一度舌が覚えると他の酒は飲めなくなる。土佐市の市民の夕食(や夜の外食)とは、大袈裟にいえば『亀泉 Cell』を呑む時間である。

プロデューサーは、私の番組出演はキャンセルだとその場で冷酷に突き放しながら、進呈した『亀泉』のボトルは「もらっておきます」と手に取って回収した。私に返却しようとしなかった。まさか、まさか、この私の提案(『亀泉』の宣伝から番組スタート)をパクリ、しかもヨッシーにそれを喋らせるのだろうかと、悪夢が頭をよぎった。やりかねないし、ありかねない。最後に、長くなるが、私がカンニング竹山の番組に出席し、その冒頭から披露しようと意図し企画していた説明内容を書く。それは土佐市と新居の歴史についてである。私のコンテンツとして大きく拡散できないのが残念だ。以下。

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竹山さんにお召し上がりいただこうとお持ちしました、この『亀泉』は、銀座のアンテナショップで8年間、売上ランキングのトップを独走している人気の一品でございます。高知は酒どころで、土佐鶴、司牡丹、酔鯨と、名だたるブランド銘酒が揃っておりますが、それらを圧倒し、東京市場のお客様に特別にご愛飲いただいているのが『亀泉』です。ぜひ、竹山さんにご賞味いただきたい。

で、実は、この『亀泉』。いまこの問題で全国で有名になった波介川河川改修工事と関係しておりまして、その波介川の上流にある清い水を使って醸造している清酒でございます。土佐市の誇りであり、全国的な大ヒット商品であり、土佐市といえば、この『亀泉』と土佐文旦ということになります...が、今はニールマーレ事件と店長さんの告発マンガの騒動で有名になってしまいました。汚名は長く残るでしょう。残念至極でございます。

波介川は仁淀川と河口部で合流して、青く光る広い太平洋に注ぎます。古代から中世にかけて、現在の新居地区は川湊として栄えた水上交通の要衝でした。仁淀川の上流部からの物資産品をここに集積し、大きな外航用の船に積み替え、そして土佐湾に出て室戸岬を回り、紀伊水道から大阪湾に入り、淀川を遡上して京に人と物を輸送運搬する、そういう外洋航路が出来上がっておりました。いわば土佐国の神戸の位置です。

その順風満帆だった川湊の新居が、近世になって逆境に追いやられます。実は、今の土佐市中心部の平野と町は、藩政初期、野中兼山公が仁淀川下流に堤防を築く大型公共事業によって作られたものです。この画期的な土木工事の結果、これまで一面荒涼たる湿地帯が広がっていた仁淀川右岸の地が、800ヘクタールの広大な水田に開発され、米(貨幣:今の日銀券と同じ富)を大量生産する豊かな土地に生まれ変わったのでした。

土佐市中心部は、こうして新田開発地にお百姓と商人が集まり、藩政期、在郷町として発展します。地面が干上がり、西の中村(四万十市)と繋がる中村街道が整備され、陸上交通の中継拠点にもなりました。土佐藩のお役人が、中村までの長旅の出張に出るとき、朝、高知のお城下を出発して、歩いて西へ15キロ、日が暮れて沈む前に、仁淀川を舟で渡って、草鞋を脱ぐ一泊目の宿場。それが現在の土佐市中心部だったのでございます。

兼山公の大規模な堤防建設によって、市中心部は発展し、幸福で順調な歴史をたどるのですが、最下流の新居地区には逆に悲劇の歴史が始まります。仁淀川は暴れ川で、夏から秋、石鎚山系に降り注いだとんでもない大量の雨が、仁淀川に濁流として一気に流れ込みます。仁淀川は、中世まで、土佐市中心部の平地をいつも水浸しの泥だらけにしていました。最下流で横から流れ込んで来る波介川が、バックウォーター現象を惹き超すのです。

大雨大水のとき、波介川からの怒涛のバックウォーターによって、仁淀川の少し上流に築いた新堤防が水の圧力で決壊する。そうなれば、せっかく作った堤防も新田も水の泡になり、心血の作である在郷町が全滅する。一計を案じた兼山公は、大水のとき下流の新居付近で堤防が切れるように、水をそこから逃がして溢れさせ、中心部の堤防を守る設計にしたといいます。私はその歴史を郷土史家の論文で読んで知りました。驚きました。

以来、藩政期から幕末、明治にかけて、新居および用石地区は何度も何度も忌まわしい洪水の被害に見舞われ、50年から100年に一度の頻度で大水害が繰り返されます。近世から近代、多くの犠牲者を出してきました。したがって、波介川河川改修工事の完成は、まさに新居地区400年の悲願の達成であり、河口に建つ「南風(まぜ)」という公共施設は、長い洪水被害の苦難から新居の住民が解放されたことを宣するモニュメントなのででございます。

あの理事長は、その意味で、新居地区400年の苦難の歴史を背負って立っ自負と矜持を持った、象徴的な長老重鎮の人物像だと言えなくもありません。そのような目で、彼の剛毅とか頑固とか偏屈とか、荒々しい気性の老人のキャラクターの背景と断面を見てあげることもできるのではないでしょうか。土佐市中心部(すなわち市役所)は、犠牲となり続けた新居の、いわば歴史的恩恵を受けて発展し、現在に至っている町であるわけです。私は、そのことを、今日この場で申し上げようと、この番組に参加させていただきました。

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以上である。この講義を延々と二人のスタッフにした。

渋谷のアベマタワーのビル内とその界隈は、若い若者がTシャツにサンダル姿で自由に歩いていて、まさにテレビで見る富裕層の別世界そのものだった。いわゆるタワマンの億ションを購入するパワーカップルとしてテレビで紹介される人々。彼らの実物がそこにいて、スマホの入管許可証で「ピッ」とやって、1階のゲートからエレベーターに乗り込んでいる。その富裕層ワーカーの日常の一瞬を体験させてもらった。渋谷は活気がある。昔からあったけれど。久しぶりに渋谷の街を散策して懐かしかった。センター街、公園通り、スペイン坂、東急ハンズ...若い頃の思い出が無数に散らばっている。ローリングストーン、転がる石。どこまで故郷と(偶然で消極的にだが)関わって、富裕層が気味悪く情報市場で儲ける東京で転がっていくのか。






































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