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ヨンゴトナキオク 2023.11.04

華麗なる早逝の天才~メンデルスゾーンの光と影

11月4日がドイツの音楽家、メンデルスゾーンの命日だと知ったのは偶然だった。2018年9月、ライプツィヒにある聖トーマス教会でバッハの『ロ短調ミサ』を合唱団の一員として歌う機会に恵まれ、初めて行ったドイツの旅。練習やリハーサルの合い間を縫い設定された自由時間は普通の観光旅行よりも少なかったのに、ライプツィヒ観光にまず選んだのが、メンデルスゾーンが晩年住んだ家の跡につくられた記念館「メンデルスゾーン ハウス」だったのも何となくだった。小学6年生でピアノを習い始め、初めて出た発表会で、私はメンデルスゾーンの『舟歌』を弾いた。今聴くと、なんて美しいメロディと哀愁ただよう曲調だと思うのだけど、当時の私にはそのよさが全く理解できず、ただ地味で暗い曲だというイメージしかなかった。ピアノ教室の他の生徒たちが華やかなショパンや重厚なベートーヴェンのソナタなどをいともたやすく弾いていて、圧倒されたこともあるだろう。先生に嫌々あてがわれ、好きになれないまま練習し(上手に弾けないまま)本番を迎えた日、口から心臓が飛び出そうな思いをしてガチガチになって弾いた記憶しかない。以来、私にとってメンデルスゾーンはクラシック音楽家の中でのランキングは低いままだった。それはきっと『舟歌』をうまく弾けなかった負の記憶から逃れるためにどこか遠ざけていたからかもしれない。

件の「メンデルスゾーン ハウス」も、さほど期待していなかったのだけど、予備知識もなく入館してビックリ。日本語の音声ガイドを借りたばっかりに、廊下にびっしり並んだパネルの説明は延々と続き、見終わる頃にはへとへとになっていたけれど、メンデルスゾーンの人生はだいたい理解できるようになっていた。そしてあらためて、すごい人だと思った。とにもかくにも、彼は銀行家の家に生まれ当時のドイツにおいてもとんでもないお坊ちゃまで、音楽では早熟なほどの天才で絵の才能にもすぐれ、当時音楽史に埋もれていたバッハを発掘、20歳の若さでバッハの死後初めて『マタイ受難曲』を自ら指揮し、バッハの名声を世に広めた。
ライプツィヒでは音楽教育にも尽力するなど、38歳という短い人生には考えられないほどの輝かしい功績を残していた。
4人兄弟の2番目で、上にピアニストの姉、ファニーがいた。ベルリンにあったメンデルスゾーンの自宅は画家や音楽家、科学者たちが集うサロンになっており、家庭は知的環境に優れていた。そこで語学、哲学、美学、文学などの学問も学び、なんとお抱えオーケストラも持っていたという。まさにけた違いのお金持ちだった。

ライプツィヒにあるメンデルスゾーン ハウス

気がつくと私たちは、メンデルスゾーン ハウスに3時間ぐらい滞在していた。短くも濃ゆい人生は栄光に満ちているようでいて、実は暗い側面も垣間見えた。彼の名前をフルネームで紹介すると、ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ。バルトルディは母方の叔父が名乗っていたものだそうだが、これは信仰する宗教とかかわりがあるそうだ。メンデルスゾーン家は、ユダヤ人だった。裕福な銀行家の一家はそれゆえ社会から迫害を受けていたというのだ。父の代になり、一家はユダヤ教からプロテスタントのルーテル派に改宗している。ヤーコプ・ルートヴィヒというのはその洗礼名だそうだ。それでも、子どもたちは学校には行けず、いわば自宅サロンがホームスクールになっていたのだ。バルトルディを名乗ることはユダヤ教からキリスト教に改宗したことを示す意味合いがあったという。今、彼の呼称はだいたい、「フェリックス・メンデルスゾーン」が一般的だろう。これほど才能に恵まれた人でも、ユダヤ人としての出自とバッハをこよなく敬愛するキリスト教精神のはざまで、経済力と高い知性を武器にするしかなかったのだろうか。20世紀、ナチスの時代には、ユダヤ出身であることを理由にメンデルスゾーンの音楽は「退廃的」と断罪され、作品演奏が禁じられたり、記念碑が撤去されたりしたという。現在は音楽家としての評価は復権しているけれど、21世紀の現代においてもなお、ユダヤ人問題がますます根深い人種問題を引き起こし、凄惨な争いの火種になっていることを想うと、メンデルスゾーンが生きた時代の空気というのは、私たちにははかり知れないほど、ひょっとして今以上に厳しいものだったのかもしれない。

ところで、メンデルスゾーンは子どもの頃から学問、音楽活動、演奏旅行、教育活動と多忙を極めていて、晩年には過労が蓄積していた。姉ファニーの才能に嫉妬するほどだったが、その分兄弟の仲でも二人は深く理解しあえる仲のよさだったという。二人はそれぞれ結婚していた。女性が音楽の道に進むのは難しい時代でもあったから、ファニーはあくまでもアマチュアとして活動を続けていた。そんなファニーが念願だった自作集を出版した翌年、41歳で急逝する。幼い頃から音楽の天分を分かち合ってきた姉の突然の死は、ワーカーホリックな弟にはよほど堪えたのだろう。わずか半年後に、38歳の若さで姉と同じ脳卒中によりこの世を去っている。一説には、姉は最愛の存在だったのではともいわれている。

私があれほど嫌々だったメンデルスゾーンの音楽。なぜか、今もまあまあ身近にある。今一緒に歌っている4人のアンサンブルも、もとはといえばメンデルスゾーンの『ゆけ我がそよかぜ』という二重唱を歌うために偶然集まったことがきっかけだったので、メンデルスゾーン先生様様だし、ソプラノのコーラス仲間とは『秋の歌』をいつか一緒に歌いたいねと言っている。これがまた美しい。というわけで今は大好きなメンデルスゾーン。時間がつくれたら、ピアノの『舟歌』にもまた挑戦したい。いや、カラオケの『舟歌』なら自信あるんだけどなぁ。何のこっちゃ。



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