写真を撮らん。

写真を撮らん。びっくりするくらい撮らん。カフェでおしゃれな料理が運ばれてきて他のみんながスマホを取り出して撮影しよっても、僕はポーっと料理を眺めよる。半年間くらいスマホを持っちょらんかったのもあるけれども、これはもっと根深いものやと日頃から感じちょって、やからこれを書いてる。

そもそもみんなはなんで写真を撮るっちゃろうか。誰かに聞いてみたことはないけど、多分それは「思い出」のためやと思う。もちろんインスタに載せたりもあるかと思うけど、結局はこの言葉に集約されると思う。例えば料理を撮るのはもちろん料理が美味しそうやからってのもあると思うけど、何よりも、「この日この人とこういう理由でご飯食べに行ったな!」と思い出した時のあの感覚が良いんやないかな。これは自分でも共感できる感覚やし、多分一般的に写真=思い出って感覚は絶対あると思ってる。

じゃあなんで僕は写真を撮らんのかって考える前に、じゃあ写真を撮る時はどんな時やろうかと思い出してみると、大きくふたつあってひとつは「自分が作った料理の写真」でふたつめは「友達と自分が映った写真」やった。料理に関して言えばそれは完っ全にtwitterに載せるやつ!!それしかないな!そんで、友達との写真はやっぱり「思い出」ってことになりそう。でもみんなの言う思い出となんか違うなと思って少し考えてみたらそれは「自分の目で見られるかどうか」ってとこに違いがありそう。料理は写真に撮らんでもこの目で見ゆるし、なんならどんなに綺麗に撮ったって自分が目で見たものと写真で見たものは決定的になんか違う。どっちが良いとかではなくて、ただ違う。この感じがとにかくいや。「違う違う!!この人とこの料理食べた時の気持ちはこんな写真にまとまらんのじゃ!!」です。写真を見た時に抱く被写体の印象は、その時に自分の目で見た客体の印象とやっぱりどう考えても違う。「贅沢言うなあほ!」やし、これは自分の目がカメラにならん限り解決せぬ問題ですよそりゃ。でも自分と友達の写真は違う。自分の目で見えてない。写真を撮って初めて完成!の感あり。写真で撮ったものがそのまま自分の記憶になるから、損なわれることもないし違和感もないしというわけよ。

写真について述べてきたけれども、これは文章においても同じかも知れん。小説とか詩をかく時に「自分が感じたことと全然違うことなってる!」と感じることに自分はどこか臆病。良いとか悪いではなく。向き不向きで言えば不向きやけれども(笑)その点エッセイは良いわ。それじゃ。