明朗快活にふるまわれると、周りはけっこうしんどいよね

「いい年になったら人前では明朗快活にふるまって見せる事が嗜み。年を食うと暗さはただ人を遠ざける要素になる」という意見に賛否両論

いる。
明朗快活なのではなく、明朗快活にふるまってる人。
あと、本来の自分より賢そうにふるまってる人。

いや、いいですよ。
どちらかというと若い人は、ちょっとした背伸びをするとよいと思う。
相手が大人だったら、「がんばってるんだな」と優しく見守ってくれる。
背伸びしないで、ぐだぐだ不機嫌な若者よりも、背伸びして明朗快活にふるまっている若者のほうが、ちょっとぐらい無理してる感じが出てても応援したくなる。

あと、初対面の場だとか、みんなでもりあがろう!とか、お祝いの場なんてときは、明朗快活なほうがいい。そりゃ当たり前です。

でも、わざわざこんなふうに書くのだから、そうじゃないケースを想定しているのだろう。友達といる場合も想定しているようだ。

ここでの議論で気になったのは“歳食えばそりゃ暗い話に詳しくなるから、悲観的になろうと思えばいくらでもなれる”ってところ。
そうなのかな。
暗い話にも詳しくなるけど、明るい話にも詳しくなる。ちゃんと双方に詳しくなっていれば、それを自分でコントロールできる。楽観的にも悲観的にもなれるようになる。それをコントロールしていけばいい。
どちらかに偏らなくていい。
「ふるまって」みせなくてもいい。

若いうちはまだ双方に詳しくないから、できるだけ、明るい方を向いているとよい。明るいほうに詳しくなるといい。暗い方はねー、向かおうとしなくてもやってきちゃうことがあるからね。やってきちゃってから、向き合うのでもいい。(このあたりまた別の話ね)

でも、年を取っているのに、明朗快活にふるまってる人は、ちょっとしんどい。
そりゃあ、不機嫌な人よりも機嫌のいい人がいい。でも、正直なところ無理して明朗快活にふるまってる人は、この歳になるとわかるし(若くてもわかるか)、それは周囲をつかれさせる。

こちらに気をまったく許していないのが伝わってくる。義務的にふるまわれる人付きあいをされると、悲しい気持ちにもなる。

あんにこちらにも義務を押しつけられるからだ。
いくら悩んでいても、いくら落ち込んでいても、この人と合うときは、それを押し殺して、明朗快活にふるまわなければならない、と思わされる。

ここで一番問題なのは「ふるまう」ということだ。
まだ「明朗快活であろう」のほうがマシだ。
明朗快活でありたいと思い、そうであろうと思う。
それは、そのほうがいい。

でも、そうできないときもある。
そいうときに、ふるまうのではなくて、落ち込んでることも共有できる人付きあいを持てるようになったほうがいいと思うんだけどな。

とはいえ、「明朗快活でふるまうことが義務だ」と自分を鼓舞しているのかもしれない。でも、無理しすぎるとギクシャクして、そのギクシャクが自分だと思っちゃうこともあるから、たまには、ちょっと気をゆるめて、人とつきあうのもいいかもしれないよ。

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