見出し画像

統一原理注解 キリスト論➖重生論

 
「新しく生れる」
パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。
イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。 (ヨハネによる福音書第3章1節〜10節)

創造原理によれば、神様は天地万物を先に創造されて、一番最後に御自身の形に似せて人類始祖アダムとエバを創造された。そして神様は御自身の子女として創造されたアダムとエバに「生めよ、増えよ、地に満ちよ、万物を治めよ」と三大祝福を与えられた。成長して完成したアダムとエバは神様を中心に結婚をし、善なる子女を繁殖し、善なる家族、氏族、社会、国家世界を作るはずであった。これがまさしく地上天国であり、地上生活を終えた後の人間の霊人体は肉体を脱ぎ捨て、神様と共に永遠に幸せに生き、これが天上天国であった。

ところが実際には何が起こったかというと、人類始祖アダムとエバは天使長ルーシェルの誘惑に乗って、神様から与えられた戒めを破り堕落してしまった。具体的に言えばエバ(最初の女性)は僕(しもべ)であるルーシェルと性的不倫関係を結び霊的堕落をした。霊的堕落したエバは今度はアダム(最初の男性)を誘惑して、二人は時ならぬ時に性的不倫関係を結び肉的堕落をしてしまった。結果ルーシェルからエバに受け継がれた悪の要素は、そのままエバからアダムにも受け継がれて行った。堕落したアダムとエバは原罪を持った子女を繁殖し、罪を持つ家庭、氏族、社会、国家、世界を作ってしまった。堕落したアダムとエバの後孫である私達全人類は好むと好まないに関わらず原罪を引き継いでいる。これが地上地獄であり、死後には天上地獄で永遠の苦しみの世界になってしまった

天の父母なる神様は子女である人間がうめき、悲しみ、苦しむ姿を見つめられ、人間以上に悲しまれ苦しんでおられる。親なる神様は人間の堕落直後から救援摂理をして来られた。それ故に人類歴史は救援歴史、すなわち親なる神様の下に帰る復帰の歴史とも言われる所以である。アダムとエバが堕落して悪なる父母になった如く、堕落人間が善なる罪のない子女に新しく生まれる為には、罪を持たない善なる父母が現れなくてはならない。その為歴史は救い主を探し求めた歴史である。救い主は後のアダム(罪のない男性)とも呼ばれる、しかし新しく生まれる為には後のアダムだけではなく、後のエバ(罪のない女性)も絶対に必要となってくる。

神様が後のアダム、後のエバなる救世主を送る為には無条件ではなかった。人間が罪を犯したのだから、神様が救世主を送る為には人間の償いの条件が立てられなければならなかった。この人間が立てるべき条件が失敗に失敗を重ねて来た為に、神様が救い主を送られるのが遅れてアダムとエバから4000年もかかってしまった。神様の救援摂理はアダムの家庭からノアの家庭、アバラハムの家庭、モーセ、イエス様の時代と延長されて、ようやく遣わされたのが救い主イエス様である。

そこで、最初の聖句に戻ってみよう。イエス様が「誰でも新しく生れなければ神の国を見ることができない」と語られた。するとユダヤ教の指導者であり教師でもあるニコデモが大人になってどうして母の胎に再び入ることができますかと素朴な疑問をイエス様に問う場面が出て来る。人間が生れてくるにはお父さんとお母さんが必要だ。同様に堕落人間である私達が霊肉共に新しく生れる為には救い主イエス様(後のアダム)と聖霊の実体(後のエバ)が必要だ。イエス様が堕落した人類を霊肉共に生み直す為には、聖霊の実体である天の花嫁を探し、見つけなければならなかったのです。しかしイエス様は聖霊の実体を迎える前に選民イスラエル民族の不信仰と反逆によって十字架につけられ殺されてしまった。その結果人類は霊肉の救いを受けることができなかった。

十字架に架けられ殺されたイエス様は、三日後に霊的に蘇られ復活されて再び弟子達を呼び集められて新しい出発をされた。霊的に復活をされたイエス様は新婦となる聖霊を迎えられ霊的救いの役事を始められた。聖霊は慰労と感動の役事をし、罪を悔い改める役事をします。イエス様と聖霊の役事によって堕落した人間が霊的に重生し聖徒となっていくのです。では私達はどの程度イエス様と聖霊を愛すればいいのでしょうか。この世で私達が最も愛する者以上に愛さなければならないと聖書には書いてあります。引用しましょう。マタイによる福音書第10章37節「私よりも父または母を愛するものは、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない。」イエス様と聖霊によって霊的重生を成したクリスチャン達は迫害や拷問にもめげず「見よ、私はすぐに来る。」(ヨハネによる黙示録第22章12節)と言われたイエス様の言葉を信じ、今か今かと再臨の時を希望に抱いて今日まで歩んできたのでした。

この様にイエス様の時代に霊肉の完全な救いはなされず、霊的救いのみがなされました。まだ原罪が残っているので神様と人間の関係は養子の立場です。霊肉の完全な救いの為にイエス様はまた来ると言われました。イエス様がまた来ると約束された再臨主が聖霊の実体を迎えられて、子羊の婚姻がなされる。(ヨハネの黙示録第19章7節)私達は霊肉共に重生(新しく生まれる)し、神様の実子となれるのがイエス様から2000年後の現代です。神様は既に神様の一人息子、一人娘を送られ、神様の約束が成就する成約時代に入っているのです。

(この記事が気に入ったら下のリンクから是非サポートして下さい。なおヨナタンのブログは前後繋がっていますので、「ヨナタンのブログ」で検索されたらブログの一覧が出ますので、最初から順を追って読んで下さるとより理解が深まるでしょう)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?