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資料室: 鈴木清順の戦争体験

準備している来月の仕事のために、以下、個人的なメモです(なので、アゴラには転載しないでください)。

 鈴木さんの映画の殺しの場面は、なにかコミカルに見えるんですが。
鈴木 いわば映画ですから。戦争に行ってもそんな感じを受けたんですがね。滑稽なんですよ。
 いや実に申しわけないんですけどね、たとえば海でやられましてね、海軍の船に救けられるんですね。それが海軍が縄を放ってくれるわけですよ。それを自分の身体にゆわえつけて引きあげるんですけどね。やり方はとにかく、引きあげるわけですよ。
 それは、黙ってたらエライことなんです。こういうしゃくれた船ですからね。頭があっちにブツかり、こっちにブツかり。縄はゆれてるわけでしょ。あがってきたヤツはみんなコブだらけなんですよ(笑)。みちゃいられないわけですよ、お互いの顔が。
 そうすると今度は、救けられたうちで死んじゃう奴がいるわけですよ。そのときも十人ぐらい死にましてね。海軍さんが来まして、将校以上は集まってくれというんですよ、甲板に。甲板に行くと、ラッパ手がいましてね、ひとり。それに海軍の将校がひとりいて、あと救けられた陸軍の将校が何人か並ぶわけですよ。
 下に屍体が置いてあるんですよ。すると水兵がふたりきまして、頭と足を持つわけです。そしたらラッパがタータターと鳴るんです。タータター、どぶん、タータター、どぶん(笑)。本当に人間は死んでいるんですよ。ところがね、タータターと投げてどぶんという音が、いかにもあわないんだね(笑)。
 鈴木さんなんか並んでみていたわけですか。
鈴木 送るわけですよ、水葬の礼だから。そのころは毛布もありませんしね、もうじかのままなんです。タータター、どぶん、タータター、どぶん。何とも言いようがないんですね、それが。
 そういう戦争のね、そりゃ戦争は非常に悲惨には違いないんだけども、そういうことだとか…… (中 略)
 チャップリンだね、これは。

『人間の記録150 鈴木清順 けんかえれじい』
日本図書センター、2003年、143頁
(最後の1行のみ次頁。段落分けは引用者)

同書の底本は、鈴木清順『けんかえれじい』(三一書房、1970年)。当該部分は「どうも建設はきらいでね……」と題されたインタビューですが、(日本図書センターの版では)初出がわからない。ただし、末尾に日活からの解雇と作品封印に抗議する「鈴木清順問題共闘会議」の話題が出てくるので、1968年夏以降の取材であることは確実です。

インタビュアーが「武智(鉄二)さんの問題が、去年あたり起ってたんじゃできなかったんじゃないかという人もいる」(149頁)とも発言していますが、そちらはこのnote でも前に触れたことがあります。

カルトな作風でいまも人気を誇る映画監督の鈴木清順は、1923年5月生まれ。43年に学徒出陣で陸軍に応召し、最後は少尉になっているので、「将校」として水葬を見送ったのはフィリピンないし台湾での体験でしょう。

同業者だと、先日拝読した前田啓介さんの『おかしゅうて、やがてかなしき』が採り上げる岡本喜八が、1924年2月生まれ(徴兵されるが、出征はなし)。近い世代では、司馬遼太郎が23年8月生(満洲で戦車隊小隊長)、三島由紀夫が25年1月生(徴兵検査不合格)。

みんな、文字どおり生まれた年が1年、時には(前田著が説くように、早生まれが絡むため)1か月ズレるだけで、人生が大きく変わる世代でした。清順が回想する「滑稽きわまりない戦争」も、そこから来る「諦観」のひとつの表現だったのかもしれません。

P.S.
彼ら1920年代生まれを指す「戦中派」の諸問題は、今月末まで有料配信中の昨夏の登壇番組でも議論しています。もしよろしければ。

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