【52】矛盾に飛びつくのは二流、矛盾に気づかないのは三流
論理的であることを標榜する(あるいはそう期待される)文章を読む身としては、一つ一つの文の、またひとまとまりの文章の、一つの書物の、さらには思想家のコーパス(=著作群)全体の中に何らかの矛盾を見つけると、わくわくするものです。
とはいえ、「矛盾している!」と言い立ててみても何にもならないということは、明らかなことでしょう。寧ろ人や文章は完全に論理的に一貫している場合のほうが少ない。最大限、一貫していると思って読んでみるべきだけれども、どうしても補いづらいところがある。そうして一貫性が崩れているところにこそ、大切なものがきらめいている。精神分析家が、患者の言い間違いや、無意味に見える言葉遊びに意味を見いだす所以です。
分析家でない我々も、また思想史家でない人びとも、対象が矛盾している箇所を念入りに分析することによってこそ、様々な価値を得られるというものです。
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ある程度私が知識を持っている分野から例をとりましょう。
たとえば、一つの文の中で矛盾した表現を使っている場合があります。
偽ディオニュシオスであれば、「輝ける闇」という表現をしばしば使います。これはいわゆる撞着語法(オクシューモロン)です。「闇」が輝くはずはない。とはいえ、「輝ける闇」だなんておかしな表現を使っているからこいつはダメで、価値がない、といった判断を下してはならないでしょう。時の洗礼を経て残っているテクストについては、あるいは腰を据えて読むに値すると思って取り組んでいるテクストについては、いくら異様に見えても、なんらか意味を読み取ることが必要になりますから、この撞着語法がいったいどういう内容を背負わされているのか、ということを分析する必要があります。
また、ひとまとまりの文章の中で矛盾が生じているということも珍しくありません。
もちろんそれは、読者の力不足によって矛盾のように見えているだけかもしれませんし、あるいは本当に誰が読んでも矛盾のように見えるかもしれません。しかしそうした時も、真摯な読み手であれば、敢えて矛盾した表現が採用されていると考えて読んでみるわけです。その中で、著者の意図ないしは、テキスト全体が持っている意図というものの方向性を推測していく作業が、読解のプロセスの重要な一部となるでしょう。
あるいは極めて簡単に言って、前近代のテクストであれば、そもそも著者の意図と言えるものが直接的に反映された手稿が残っていないことは多く、その場合にはいわゆる写本をベースにした校訂版が用いられるわけですが、そうした校訂版は――もちろん学者の努力を決して作られているとはいえ――印刷技術の発達した近現代の書籍に比べると、誤りを含む可能性は高い。だからこそ、ある種の歴史家は、校訂版が多少整っていても、また別の写本を参照するなどして、校訂の精度を上げていかなくてはならないのですし、そうした過程でそれまで矛盾だと思われていたことが実は矛盾ではなかった(単なる読み間違いだった)とわかることもあるでしょう。
思想家の体系の中で、あるいは思想家のキャリアのなかで異なる時期ごとに、矛盾し合うような主張がなされている場合には、事情はもっとわかりやすいかもしれません。
というのは、思想家というのも哲学者というのももちろん人間だからです。つまり、同じ問題にずっと立ち向かい続けるとしても、いろいろな所で学び、いろいろなところから情報を摂取し、いろいろな人と話しているうちに、考え方が変わってくることはもちろんあります。
時代や著者によっては、「私はかつてこう考えていたが、今ではこう考えている」などと言ってくれる場合もあります。例えばトマス・アクィナスは、割礼に関する議論について自分が考えを変えたことを明確に説明しています(『神学大全』第3部第70問題第4項主文)。
とはいえ、そのように自分がどのような経緯で考えを変えたのかということを逐一説明してくれる思想家は、それほど多くないといってよいでしょう。
だからこそ、真摯な読み手、ないしは研究者であるならば、考え方が変更された箇所を見つけたら、それを矛盾だと言い立てるのではなく、この箇所と別の箇所では主張(や方法論)が違っているけれども、それはどういった理由によるのだろう、という問いを立てる。そして、ふたつの主張が置かれる文脈はもちろん、テクストの間にある他のテクストや、細かい表現や文体の差異を検討しながら、どういった影響のもとに、どういった文脈において、表面上異なるように見える、あるいは本当に異なっている意見が提出されているのかを判断する。もちろん具体的なことを言っているときりがありませんが、こうしたプロセスは、真摯に読むためには是非とも必要だということになるでしょう。
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詰まるところ問題にしたいのは、ある一人の人間、それも真剣に向かい合いたい人間、が述べている内容が何らかの次元で相互に矛盾しているように見えるときにどうするか、ということです。
もちろん矛盾は目に付きますから、何かしら言いたくなるかもしれない。あるいは少し腰が浮き上がって、飛び掛りそうになる。
そうした気持ちは、分からないではありません。概して人文系の研究者はそういう意味で性格が悪いので、「お、矛盾しとるな!」と気持ちが沸き立つわけです(笑)。そうでなくても、おわかりになる部分は(僅かかもしれませんが)あるのではないでしょうか。
とはいえ、やはり相手に対してもう少し真摯に向き合ってみるのであれば、その矛盾(めいた印象を与える表現)というものがどこから生じているのかということを、考える必要があるように思われるのです。
矛盾というものがある種、著者ないしは発話者の意図に基づいて、精妙に配置されたレトリックであるという場合もあります。
ときには、その矛盾に心を動かされるということで、著者の目的そのものが達成されているという可能性もあります。つまり、矛盾に見える、矛盾しているように見える言葉を多数ぶつけることで、読み手を不安にさせ、疑念を抱かせる。そのことで読み手は、知らずのうちに著者のテクストをより精密に読もうと努力してしまい、テクストに引き込まれてゆく、という次第です。
あるいは、著者自身が深く意図していなくても、異なる媒体や異なる時によって、著者は異なる読み手を想定しているのであり、あるいは異なる文脈において同じ内容を考えているのであり、その場合には対象の切り取り方も当然異なってくるわけです。つまり場面に応じて適切なパフォーマンスを取る以上は、そのパフォーマンスのあり方・見え方というものは大いに変わってくるという成り行きです。
私は今ここに多少の事情があって匿名で書いていますが、私が匿名で書く文章と、実名で書く文章では、全く性質が異なります。いずれはどこかで統合されることになりますし、そもそもある種の検索スキルを持つ人が少し頑張れば「身バレ」しますが、それでも文体は随分変えますし、同じものを見たときの接し方・切り取り方も、随分変わっています。
哲学テクストについても、単純な、断言するような口振りで語ることは、普段はまずありえません。飲み会でやるなら別ですが、論文でやらかしたら一発で査読者の不興を買うことでしょう。
場面に応じて態度を変えるというのは、同じ名前・同じペルソナを持っているようにみえる著者の場合でも同じことでしょう。つまり一人の著者が一つの名義を使っていても、異なる場合によって異なる演じ方をするということは全く珍しくはないということです。
まだまだ短いとはいえ、50日ほど毎日数千字単位の投稿を行ってきましたが、その中で矛盾しあう言葉を一つも入れていない、とは全く思いません。寧ろ、意識的に「ああこれは前言ったことと矛盾してるなあ」と思いながら書いているものも、もちろんあります。
しかし、そうした矛盾しあう言説が(かなりの量)あるのは、私がどちらかに肩入れしているとか、どちらか本当は信じていないということではなくて、寧ろ文脈に応じて、似たような事態が様々な形で表現されうるということの表れなのだと思います。
記事を書くにしても、私は漠然と書いているというよりは、例えばこんな感じの性格を持った友人とか、あんな感じの意思決定基準を持った知り合いというように、わりと具体性をもった読者の顔を想像しながら書いています。
そのため、同じ領域に関係する事柄であっても、想像されている読者が違う以上は、異なる書き方になるのも仕方がなく、正反対のことを言っているように見えるのもまた当然だというわけです。
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してみれば、我々がある人間の書く文章や、ある人間というテクストを真剣に読む側に回る場合、何かしら矛盾を見つけたとしても、それが矛盾だと盛んに言い立てたり、あるいは内心で「こいつは矛盾してるな」と思ったりして満足するのではなく、寧ろ「どうしてここではあちらと違う表現を使っていいるのだろう」とか、「どうしてこのように矛盾したことを言っているのだろう」とか、考えてみることが、ときには重要になるのかもしれません。
つまり、批判する気持ちを先立たせるのではなく、相手の表現の裏側にある意図や状況といったものに目を向けてみることが、重要な意味を持つのではないでしょうか。
こうした態度はもちろん、相手を無闇に批判しない穏やかな性格でいるとか、あるいは良い人間関係を作るという目的の為にも大切なことかもしれませんが、寧ろそうした少しく綺麗なガワを張らずとも、実益――物質的に儲かるというわけではないかもしれませんが――をもたらすものでもあるように思われるのです。
より具体的には、矛盾しあうかに見える表現や主張をよくよく検討する作業は、相手が書いているテキスト・相手が振り出している情報をより慎重に読み、自分にとって役立つもの・面白いものをより多く・より高い精度で抽出するためにも有用なプロセスであるように思われるのです。
こうして、相手の矛盾の背後にある、いくつもの絡み合った事情を明らかにできたときには、矛盾を発見したそのときよりもいっそう大きな快楽を得られると言ってよいでしょう。
裏を返せば、研究の文脈であれもっと実践的な領域であれ、相手の矛盾にばかり目を向けて、その背後にある文脈を考慮しない態度は、二流の人のそれであって、自分の可能性を狭めるものであるように思われるのです。
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もちろん矛盾の背後にあるものを見るためには、矛盾それ自体を認識していなくてはなりません。なので、矛盾があることをわかっているのに矛盾の背後にさかのぼれない人よりも、矛盾があるということを認識できない人は、いささか鈍い感性を持っていると言えるでしょう。
対象に対してあまりにも関心がないのであれば、別に矛盾に気づく必要はありませんし、そもそも読む必要もありません。寧ろそんなものは読まずに放置していればよいでしょう。「ただ見て過ぎよ」というわけです。あるいは表層的に情報を得ることで満足すればよい。
真剣に読むべきものは選んで、深く読むのが大切ですし、そうしていればと矛盾が目につくはずなのです。先に述べた通り、書き手は完全ではありませんし、読み手の能力にも限界がありますから、必ずや何かわかりにくいものに辿り着く。
……そうした「わからなさ」にさえ至らない人は、腰を据えて読めていないか、あるいは自分にとって価値あるテクストを見つけられていない点で少しく不幸かもしれませんし、不用意に言えば三流の読み手であると言えるでしょう。自らの可能性を狭めるどころか、閉ざしてしまっているのです。
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以上ではもちろん、他人の書いたテクストを読むときのことに着目してきましたが、事情は自分というテクストを読む場合にも当てはまることでしょう。
どの他者が、またどのテクストが重要になってくるかは人によって変わってきますが、極めて素朴に言うなら、ある人にとって、その人自身は最も大事な人間であり、最も大事な分析対象なのです。他人の書いた文章を全く読まない人間であっても、あるいは他人と会話をしない人間であっても、自分自身から離れることはできないのですから、自分自身に向き合うことは不可欠であるように思われます。
さて、人は多くの場合、自分について語るのをよしとしません。あるいは寧ろ、他人が自分について語るのを好ましく思わず、また聞きたいとも思わないものです。人間にとって最大の関心事は自分自身のことですから、職業的な必要でもなければ相手のことなど気にしないのが普通です(その点、テクストを専門的に扱う人間は自分を観念的に抹殺することをなりわいとしているからこそ、他人との関係に良くも悪くも気を使いすぎるのかもしれません)。「自分語り」はそれだけで嫌われがち・笑われがちでしょう。実際、(広い意味で)公共性のない「自分語り」は、そういった扱いを受けても文句を言えないはずです。
こうした状況ですから、公共の場で自分について語るのを差し控えるのは、もちろんよくわかります。しかしこれと軌を一にするかたちで生じている現実、つまりプライヴェートな場でさえ自分の精神に目を向けて言語化しないことが多い、という現実は、実に嘆かわしいことであるように思われるのです。言い換えるなら、外圧におされて、自分自身に対する反省の方を抑圧するのは、実に嘆かわしいことであるように思われるのです。
私が大多数の人間の心理を正確に把握しているなどと言うつもりは全くありませんが、先日、毎日を忙しく過ごしていたもののリモートワークになって一気に暇が増えたという友人と話していたときに受けた印象は、そういったものでした。
彼は仕事がうまくいっていて配偶者もおり、充実した生活を送っているようでしたが、否、そうであるからこそ、肝心の自分自身の精神について、より具体的には自分のやっていきたいことなどについて、想いを致していないようでした。暇が増えたというのに、彼の口から出てくるのは、私が聞きたかった彼自身に関する話ではなく、誰がどうしたとか、あの本がどうしたとか、そうした広義の表層的なゴシップばかりでした。こうして対他的な認識や感情ばかり抱いていれば、自分の心というものはいずれ迷子になってしまうのではないかと恐れずにはいられません。
多くの場合、自分の心理(の矛盾)というものには、自分の精神にきちんと注意を向けて、ときにそうして注意を向けた結果を言葉にしなければ、気づくことができないものです。漠然たる考えは誰でも持っているものですが、それだけでは本当に漠然としていて、どういった問題があるのか(あるいはないのか)、どういった思いが矛盾しあっているのか、ということは全くわからないままです。
だからこそ、意識して自分の精神へと注意を向けねばならないし目の前にきちんと鏡を置いて我が身を見据えねばならないのです。書くことや話すことで、明確にたしかめねばならない。
そして、自分の中に潜んでいる問題や矛盾を発見し、それを乗り越えていくことでしか、(広い意味で)育っていくことはできないのですから、自分の中にある矛盾にすら気づかない人間は、
もちろん、反省してみて自分の中に全く矛盾がないということであれば、それはそれで良いのですが、葛藤が何もないというのは、ある意味では神や天使にしかありえないことです。人においてはなかなかないことでしょう。
少しでも理想というものを持っている人間であれば、必ず、現状に関する正確な認識と、理想をとらえ希求する心理とのあいだで、大いに矛盾が生じている。そうした矛盾は別段苦しいものとして立ち現れる必要は無いにせよ、はっきりと認識して克服を目指すべきものでしょう。
……その点で、とりわけ自分の精神というテクストに入りこんだ矛盾を認識できない人間というのは、大胆かつ不用意な言葉遣いをするのであれば、三流なのかもしれません。