【46】アマガミと宇宙際タイヒミュラー理論と(危険な)比喩

先日、某国で研究している友人と喋った時に、いくつか話題になったことがあります。
彼と直接、というかヴァーチャルであっても、顔を合わせて喋るのは久しぶりのことだったのですが、彼とは十数年来の友人で、話すネタも非常に多い。この間会ってからもう随分経つというのに、やはり過去のネタを反芻することはいくらでもできますし、私と近い業界で生きているからか、話のネタにも事欠かないという次第です。

会話の中では面白いことが幾つも幾つもあったのですが――例えばフィリップ・マインレンダーの思想などは、割と力を入れて取り組んでみてもいいかなと思わせるようなものでした――、しかしその中でも面白かったのが、お互いの人間関係を説明する時に使う共通言語 に関する気付きでした。

共通言語と言っても「日本語」「英語」というかたちでの言語ではなく、ある一定の文脈に根ざした表現の体系のことです。

お互いにある程度マイルドなオタクであるということもあり、人間関係を説明するときに、いわゆる「ギャルゲー」の場面や、人間関係や、登場人物になぞらえて語ることで、用が足りてしまうことがあるのです。
その時あがったゲームの名前は、『アマガミ』でした。『アマガミ』は、私の世代や私の少し下の世代には絶大な影響力を持ったゲームで、アニメ化もされています。少し前の世代における対応物は『ときめきメモリアル』ということになるのでしょうか。いや、『Kanon』か、『CLANNAD』か、事態を正確に説明するための知識を私は持ち合わせていませんが、いずれにせよ、多くの人間に影響を与えたゲームであることに間違いはありません。
『アマガミ』は、とりわけパッケージに描かれた攻略対象のヒロインのうちの一人のキャラクターの強烈さから、実際にはプレイしていない、あるいはアニメを見ていない人にまでよく知られています。

ともかくこの『アマガミ』は、一定のコミュニティにおいては会話の前提・共通の教養になっているので、そこに出てくるヒロインの名前を使って、現実の世界についてのたとえ話をひねり出すことがいくらでもできてしまうわけです。哲学科の学生がアリストテレス語で日常会話をしたり、プラトンの対話篇に出てくるソクラテスの取り巻きの相槌を真似て会話に滑稽味を加えたりするのと似ています。

ともかく彼との会話の中では、たとえば「やっぱり梨穂子より薫だよなあ」という共通了解が、私たちの間では取られることになりました。要するに人生のパートナーにするなら温厚な性格の幼なじみよりも、少し強く当たりあうことのできる悪友だろう、という了解です。

彼が後で振り返って「何でもアマガミにたとえるのはマジでキモいオタクだからやめたほうがいい、よく考えてみると最悪でしかなかった」と言っていました。私もはっきり言って同感です(笑)。

とはいえ、私たちはそのたとえに行き着いたときには何かを共有して爆笑したのです。
そもそも一定の言語が共有されているのは実に面白い事態ですし、「アマガミにたとえると○○である」の一言で何かを了解できた気になってしまうのは、実に不思議で、しかし興味深いことだと言えるでしょう


さて、何かを何かに例えて説明するということで言うと、つい昨日見た動画もまた印象深いものでした。

皆さまもよくご存知かもしれませんが、数学界における重要な予想であるABC予想を解いた、と主張する京大数理解析研究所の望月新一教授の論文が2012年に提出されていたわけですが、その査読がようやく終了したという報が出たのがつい最近のことです。

そして、その中で用いられているのが――もちろんド素人の私にはよくわからないとはいえ――「宇宙際タイヒミュラー理論」という理論のようです。

私は受験時こそ文系でしたが、小学生の頃から背伸びして高校数学などやっていましたし、大学でも細々と理系の講義など潜っていた身としては、何かしら理系っぽいものに触れる機会は大切にしたいもので、他にすべきことは辛うじてやったうえで、息抜きに数学の問題を解いたり、ちょっとした文章を読んだり、といった作業は行なっているわけですが、昨日は、その「宇宙際タイヒミュラー理論」の解説の動画を見ていたわけです。
(YouTubeのリンクはこちら https://www.youtube.com/watch?v=kq4jbNl4lJk)

この動画は、やはり数学者であるところの、東京工業大学の加藤文元教授がニコニコ生中継で行ったものです。

中身は、極めてざっくりとした宇宙際タイヒミュラー理論の意義と内容についての解説で、私のような門外漢には接近しがたい面がありつつも、実にスリリングなものでした。

80分を超える及ぶ講演が終わった後に加藤教授が質問を受け付けていたのですが、そのうちの第1の質問と回答が実に興味深いものでした(82分45秒頃)。

質問は、一般の人に対して、専門性の高い難しい数学の内容を数式なしで伝えるときに工夫していることは何か、というものでした
それに対して加藤教授は、「難しい質問」としつつも、「比喩(たとえ話)を使う」のだと答えました

実際、加藤教授は、望月教授が提唱する宇宙際タイヒミュラー理論を解説するにあたって、ジグソーパズルの比喩や、色々な向きを向く人間の比喩や(群論の解説)、色々な舞台で活躍する人の比喩を効果的に用いて、私たちにも、つまり門外漢にも何らかのイメージを抱きやすいようなかたちで説明を進めていたようです。

加藤教授は、一般向けの著作も多く、語り口も実に見事ですが――あんまり見事なのでKindleで買える著作は全て買ってしまいました――、そうした語り口の上手さを自身言語化するときに、「比喩」という言葉が出てくるのは、実に興味深いことでした。
 

さてこのように、広い意味で言われる比喩というものは、情報を伝達するにあたって、極めて多様な効果を持ちます

(無論上に見られるのは、2つの対象の類似に基づいて言われる狭義の隠喩métaphore、ないしは2つの関係の同一性に基づいて言われる類比analogieであり、どちらかであると厳密に切り分けることは困難ですが、さしあたり「比喩」として説明します。)

ここで挙げた例に即して言うのであれば、まずは共通の言語でもって語ることで、特定の内容にレッテルを貼って、強烈に印象づける効果があります。これは先ほどの『アマガミ』の例です。
これに近いのは、ことわざでもってある状況をまとめてみることであり、あるいは聖書や有名な著作の文句を引用して何かを説明してみることです。これらも、広い意味では同等の効果を持つものと言えるでしょう。
あるいは人によっては、『アイカツスターズ!』の白銀リリィや、『若おかみは小学生!』の秋野真月や、『ガールズ&パンツァー』のダージリンが、色々な場面でやたらめったらに名言を振り出す状況を想定されるかもしれませんが、こうしたキャラクタが実践するのはまさにそうした操作です。

こうした効果の他に、比喩というものは、先ほどの加藤教授の例ですが、そのままでは分かりにくい内容を専門外の人に効率的に伝える際のフックとして機能すると言えそうです

以上のような事情から見ても、比喩というものは、コミュニケーションにおいて的確に用いることができると、非常に有用なツールであると言えるでしょう。

お互いにある種の言語的なラポール(信頼関係)を築くために有用で、自分が持っている概念的に難しい知識を、特に畑が違う他人に効果的に伝えるために、極めて大きな有用なのが、この比喩だというわけです。


さてこのように、各所で有用な比喩ですが、これが対象そのものの姿を直接的に暴き出すものではない、ということも銘記しておく必要があるでしょう。

比喩というのは、極めて大雑把に言えば、「XはYのようである」という表現を内に秘めたものです。もちろんこのようなかたちで明確に表現されるとは限りませんが、このように直喩的な表現に読み替えることが一応できるということです。

先ほどの例で言えば、Aさんは『アマガミ』に例えると絢辻詞のようなものだ、と言うことができる。あるいは、宇宙際タイヒミュラー理論がやっているのはパズルのピースを拡大縮小することでぴったりあわせるようなものだ、と言うことができる。このように、メタファーであれアナロジーであれ、比喩的な言葉は、「XはYのようだ」という関係を読み取らせる効果を持っているということです。

ここで極めて重要なのは、「XはYのようだ」と言われるときには、「XはYではない」、という強烈な前提がある、ということです。

比喩は説明のフックになり、ある対象に漸近する手段にはなるけれども、ある対象そのものとは決定的に隔たった理解しか与えないということです。極限値はあるかもしれないけれども、高校数学流の極限の定義を思い浮かべれば、そもそも(有限の値における)極限はある値の近傍でのみ定義されるものです。f(2)とlim(x→2)f(x)では意味が異なる。後者は偶f(2)と一致する値にはなりうるかもしれないけれど、決してf(2)そのものではない。

例えば宇宙際タイヒミュラー理論で言えば、この理論が目指しているのは、はまるように見えない二つのジグソーパズルのピースの拡大縮小を行うことでぴったりはめるようなものだ、と言われたって、それは「ような」ものに過ぎないわけで、この比喩を飲み込んでも、宇宙際タイヒミュラー理論そのものを理解したことにはならない、というなりゆきです。そのものを理解したいなら、しっかり勉強する必要があるのでしょう。

つまり比喩は、ある種の解釈の装置、あるいは色眼鏡と言えるのです。あるいはギリシャ語に従うなら、移動せしめられた・うつしかえられたものであって、対象そのものを与えるものではないということを知っておく必要があるということです。


さらに言えば、『アマガミ』の例に見られるように、比喩はある種幻惑的な効果を持っています

比喩が上手いように見えるのは、必ずしも事実に近いことを言い当てているからではない場合もある、ということです。つまり比喩において持ち込まれた事例そのものが極端であったり、滑稽であったり、あるいはわかりやすすぎたりする場合、その比喩はなるほど印象に残るのですが、説明すべき事実と、実のところ対応していないことがある。
それでも比喩というものは印象に残ってしまって、その結果として、現実に対する応答のありかたを、根本的に、良い方向にであれ悪い方向にであれ変えてしまう可能性を持っている。そうした幻惑の効果を持っているというわけです。

このようにしてみると、比喩というものは、説明の上での極めて有効な装置であるとともに、一定の限界を、さらには危険を孕んだものでもある、ということが言えると思われます。

特にこの危険は、哲学テクストを読むときや、一般に相手に寄り添って相手を理解しなくてはならない時に際立つものであるように思われます。

例えば哲学テクストを読むようなときには、抽象的な言葉ばかりで進められている場合、本文の理解に役立ちそうな例を作り出して、その例の側からなんとか本文を理解しようとするということがあります。「~という例にたとえてみると、こう理解できるのでは?」という方策をとりがちだということです。

しかし、自分で勝手に当てはめた具体例というものが、根本的に間違っている可能性もあります。間違っているけれども、間違いに気づけない可能性もある。間違いに気づかないままよくない比喩を当てて突き進んでしまうと、結局正しそうな解釈に戻るのに時間がかかることがあります。

これはけっこう重大なことであって。そのため、具体例に置き換えて説明を行うとすることを厳に慎む専門家もいる。特に、テクストの内部に具体例が提示されているなら尚更で、その場合には新たに恣意的な例を用いるより、既に与えられている例を正確に説明し理解することにこそ力を注ぐべきだということです。

私もこのように、(本文にない)具体例を避ける傾向には同調するものであって、抽象的なものはできるなら抽象的なままに理解した方が予後は良い、という立場を取っています。もちろんテクストにもよりますが、特に論理的な・正確な理解が問題になる場合、比喩ないしは具体例を出してきて語ることが一定の危険を含む、という考えに立っているということです。


もちろん、ある事実を比喩的に解釈して、それを自分の実践のための教訓とするのであれば、それはそれほど大きな問題を生じさせないかもしれません。

たとえその比喩というものが、よく考えてみればぴったりいく比喩とは言えなくても、つまり実は現実をうまく説明できている比喩とは言えない場合でも、自分の実践がうまくいくようなものであれば、そうした比喩は問題ないのかもしれません。

とはいえ、比喩は比喩であって比喩でしかない
つまり比喩は、現実を分析的に説明するものではなく、あえてずらす、そうして幻惑の作用を持った、少しく危険なものであるということだけは、理解しておいても良いのではないかと思います。

そうして言語に敏感になること、つまり比喩というものが孕む危険に対して意識を向けること。それは、繊細に言語を使い、ひいては言語そのものに、あるいは目の前のテクスト――人間というテクストも含む――に対して誠実であるための、一つの極めて重要な条件になるのではないかと思われます。

少なくとも私には、言語に対するこうした誠実さの有無は、回り回って、言語的存在でしかない人間であるところの我々の実践に、深いかたちで影響を及ぼすように思われるのです。