【100】生活の諸面で「大人」になる

何を以って人を大人と認めるか、ということについては様々な論があると思われますし、私はこのことについては決定的な解答を述べたいわけでもお説教を垂れたいわけでもありません。そんな資格もないでしょう。

私が深い考えなしに、それでも大人になったなと思える瞬間というのは例えば、極めて親しくしてきた——それこそ子供の頃から今に至るまで親しくしてきた——相手と久々に話して、なおこの相手にすべてを包み隠さず話せることはないのだな、とふと気づく瞬間です。そうした諦めの瞬間です。

どういうことかといえば、全てをさらけ出して付き合えるような相手というものが、常識的にはありえないのだな、ということにはっきり気づく瞬間というのは実に、自分の(良い意味でも悪い意味でも)成長に気づく瞬間だということです。

考えてみれば当たり前のことで、皆さんも、配偶者に見せる顔と、子供に見せる顔と、親に見せる顔は違うはずです。上司と友人に対して同じ態度で接することができるはずはないでしょう。教育や諸々の手続きのなかで少しずつ、言葉遣いや身振りを教え込まれて、場面や相手に応じて、様々に異なる適切な言葉遣いや振る舞いを採用する態勢を身につけてゆくわけです。

態度というのは形式の問題ではなくて、話せる内容にももちろん密接に関わってきますから、要するに心ごとすべて投げ出せる相手などありようがない、心にのぼってきたことを全て吐き出せる相手などない、ということに気づくのが、大人になったということの、少なくともひとつのあらわれなのでしょう。

実際そのような人間関係、つまり特定の一人の相手に自分の全てを見せて相手もそれを受け入れてくれる、という人間関係が現実的でないからこそ、そうした人間関係や、そこからの離脱というものを描くフィクションがかくも多く流通している、と考えてもそこまで的外れではないように思われます。


ここでは別にそれほどたくさんの例を挙げる必要ないと思います、しかし、単純に戯言として、2018年に公開されたアニメ映画『リズと青い鳥』(京都アニメーション)を挙げておきましょう。

精神的生活が深くなりますので、買って必ず観てください。必ず、です!

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『リズと青い鳥』には二人の主要登場人物がありますが、そのうちの一人である鎧塚みぞれは、もう一方である傘木希美のことをある意味で全てだと思っているわけです。少なくともそう思って、そのような表現を行いつづけるわけです。

しかし現実的には、鎧塚みぞれは傘木希美のそれとは異なる自分なりの進路を手にして、自分なりの交友関係というものをよそにも広げていく。そういうかたちで、良いか悪いかは別にしても、相手から自立してゆく、という筋です。

もう一つは選ぶのに困りますが、『マリア様がみてる』第3巻『いばらの森』所収の中編『白き花びら』における佐藤聖と久保栞でもよいでしょう。高校で知り合ったふたりは成績も素行もどんどん悪くなるので、周囲からはさんざん注意されます。ふたりは駆け落ちしようとするのですが、栞が寧ろ思いとどまって、聖と別れる決意をし、ふたりの関係は行き先を明示しない栞の転校というかたちで終えられるというなりゆきです。

が、聖は友人や先輩に救われますし、ゆくゆくは片手だけつないで一緒に歩いて行ける後輩(=藤堂志摩子)と出会うことになります。つまり開かれた、健全な人間関係を築いていきます。


フィクションにおいてさえ殆ど不可能なものを、私たちが本気で求めることは殆どありませんし、大人になった今になって、自分が何でもかんでもさらけ出せる相手をほしいという気持ちは、或る種空想めいた・まともにとりあわれない思いでしょう。

きっと、本気で願っても無意味だということをどこかで知っているからです。

あるいは、実際に心ごとすべて投げ出してしまえるような相手に出会ったとしても、その点においてある種奇跡が達成されたとしても、現実的にはその後が大変です。完全には現実主義を棄てきれないということです。

現実的な人間であれば、私たちは当然不安を覚えるでしょう。自分が依存する相手がただ一人であれば、その相手が見えないときは不安でしょう。その相手が他の人と親しくしていれば不安でしょう(精神分析で言えば、子が母を求め、父に嫉妬する絵です)。 

鎧塚みぞれが、自分にとって特権的な友人であるところの傘木希美の交友関係の広さに関して漠たる嫉妬・不安を覚えていたことからもよくわかることでしょう。


というのに!

というのに、つまり人間関係においては大人になってゆく中で関係を分散させておくなり、ある種の保険をかけるなり、そうした現実的な作戦を巧妙に覚えていくというのに、自分と社会との関わりにおいては、ひとつのところに根を張って安定しようと思う傾向がないでしょうか。社会との関係において、「大人」であることを放棄して、幼い子供のように、親に依存しようとする傾向がないでしょうか。

どういうことかと言えば、自分が持っている特定のスキルや、あるいは自分が働いている会社など、極めて限られた範囲のものに依存して生きていこうとしてはいないでしょうか。

この不安定なご時世、ひとつのところに根を張っていたら、その土地その地面が崩れたら終わりだ、ということは火を見るよりも明らかなはずなのですが、何故だか一つのものにしがみつきつづけている人は私の友人にも多いですし、おそらくまだ割と一般的な生き方ではないかな、と思われます。

おそらくみんな薄々気づいてはいるのに、そうしつづけている。

もちろん、私がこのようなことを外野からガヤガヤと言い立てることができるのは、私自身が(ある友人の言葉を借りれば)限りなくニートに近い世間知らずな院生だからかもしれません。

なるほど、そういうところあるかもしれません。たとえば大学院生の金銭の得方というものは、商売をやっている人間とは大きく異なっています。実家が太い人なら実家に頼り切っていても問題ありませんし、そうでなくとも、研究のかたわらでガッツリ仕事をしている人は(少なくとも日本だと)稀です。

研究が「仕事」かといえば、微妙、というか私はあまりそう言いたくありません。多くは時間的拘束も、明確に研究の対価として支払われる給与も(特に大学院生だと)殆ど発生しないので——当然、学振の奨励金の類はもちろん研究の対価ではありません——、特に大学院生が自分の研究のことを「仕事」だと言い張るのには強く反対したい立場です。実態としても、実験を盛んにやる研究ならともかく、人文系だと「出勤」も義務付けられないことがほとんどで、「仕事」のイメージからは隔てられているかも知れません。。

それはともかく、私がいわゆる普通の勤め人とは少し異なるキャリアを取っているから勝手なことを言える、という側面はあると思います。

しかし、それはそれとしてやはり、平成初期ぐらいまでは十分にイケたキャリア、つまり一つの組織(大学を含めても良い)にズブズブになるとか、一つの専門や作業にしがみつきつづける(大学教員でありつづける、ということを含めてもよい)とかいったことは、これからは一層難しくなっていくでしょう。

というか、できるとしても、不安を誘うようなキャリアにしかならないように思われるのです。

もちろん、各人が自分の居場所で、自分のひとつの専門に従事して、ほとんど周辺のことを気にせずに生きていける世界のほうが良いのかもしれません。自分がどう生きるのかを深く考えなくてはならない社会がいい社会であるかどうかは私には分かりません。私はともかく、ひとつのところで一人の人間が頑張って、それで一生安泰に生きていける社会は、ある意味で非常に良い社会だと思っています。

こうした理想は、それはそれで良いのですが、しかし、どうやら現実はそうではなさそうです。私たちはフィクションならばいくらでも立てることができるけれども、とりあえず今ここにある現実は変えることができませんし、現実は、少なくとも直接的には身体的条件を、間接的には精神を強く支配します。その現実には対応するほかないわけです。

例えば、某感染症が流行しましたし、流行しつづけていますが、その現状のほうを今すぐ変えるということは、個々人がいくら決断したってできないわけで、何らかの対応を強いられた人の方が多いはずです。

ウイルスに本気で文句を言う人はいはないでしょう。ウイルスが広がるのは仕方がない。防ぐことはできるかもしれませんが、ウイルスに責任を求めることも、ウイルスを裁判にかけることもできないから、我々の側でどうにか対応するしかないわけです。

同じように、現在の社会の構造というものも、時間をかけて大きく構成されてきたもので、あるいは政権や財界大企業などが連帯して成立させたものかもしれませんが、ともかく一個人が即座に社会の構造をというもの変えることはできません。ですから、個人個人の水準では、どうしたって対応していく必要があるのです。

その対応の一つとして必要になるのが、自分が社会と関わる回路を複数持っておくということではないか、と思われるのです。

顧客という観点でも、機会を与えてくれる人間関係という意味でも、カネの源泉としても、です。

なぜなら、いつどの回路が閉じられるかわからないからです。


翻って、私たちはそうした複数の回路を持ち合わせているでしょうか。

端的に言えば、金になるような、生活の資をもたらしうる回路を複数持っていますか、ということです。その回路というのはもちろん、人と人とのつながりであってもよいし、あるいは専門的な技能であってもよいし、なんでもよいと思います。

が、お持ちでしょうか。


これまでのイメージとしては、あるひとつの会社とか、あるひとつの専門技能とか、極めて限定的な仕事上の人間関係に、フルヌードを解禁していれば良かったのかもしれません。

しかし、もはやそれは安全ではない可能性が高い。フルヌードを解禁しても、目の前に誰もいなくなってしまう可能性がある。であれば、フルヌードを見せびらかすまでいかずとも、様々な人に様々な角度から違ったチラリズムを顕示していく必要が、これからはあるのではないかと思われるのです。手を抜けということではなく、本気のチラリズムを各所で示してゆく必要があるのではないかということです。

一つの所に全力投球する。それは良いことでしょう。自分の人生というものは(誠に遺憾なことに)ひとつですから、人生には全力投球する必要があるかもしれません。しかし、リソースの配分、あるいは力の割きどころといったものは、今後は少なくとも複数持っておくことがマストになるのではないでしょうか。私たちが大人として人間関係に対してある種の分散投資を行ってきたように、です。

複数の人間関係を持ったからと言って、責める人は誰もありません。であれば、社会との関わり方を複数準備することも、さほどおかしなことではないでしょう。

そうして分散投資したものが、つながって良い効果を生むこともあるでしょう。人間関係が連鎖的によい効果を生むのと事情は変わりません。

ひとつのところに深く根を下ろすというだけでは、よほど深くなければ、非常な不安定に見舞われることがあるのではないかと思われるのです。土壌が安定していた時代ならばよかったのです。

しかし今となっては、あちこちに根を広げてゆくこと、様々な方向に蔦を伸ばしてゆく作業が、必ずどこかで必要になるように思われるのです。