見出し画像

【822】お別れの言葉

ここ数年、というか書きはじめてからずっと、もうやめようかなという気持ちがずっとありました。いくつか理由はあり、箇条書きにできるような簡単なものではありませんが——だいたいにおいて、物事を箇条書きにしたがる人、箇条書きを求める人、箇条書きにしても何も失われないと思っている人、は残念ながらあらゆる知的活動に向いていないので早々に諦めたほうがよさそうです——、とまれやめたほうがよさそうだと確信したのはせいぜいここ200日のことです(長いなあ)。早くやめるべきでしたが、やっとやめられます。

面倒だというわけではありません。面倒というのならばもちろん人生そのものが面倒で、朝起きる度に「また目覚めてしまったナア」と思うのはここ数千日のことです(し、この感覚を共有できない人間とは何を話しても無駄でしょう。こういった感覚を或る種の病理に帰して「心配」しだす人間もまた、単にものを考えたことがないということですから、話をする価値がありません。)

あるいは他のもっと価値のあることで忙しい、というのは当たっています。

noteに流れてきて否応無しに目に入るクソキモいゴミに耐えられないというのも当たっています。

あるいはnoteの運営体制があまりにも酷いということでもあります。母体となる会社の度重なる不祥事については皆さんも聞き及んでいるところです。

文章を書くということを何かに「つなげる」ための取り組みの可能性や基本的態度としてあがることがらがどれも徹底的に気持ち悪い不誠実なゴミクズで嫌だ、ということでもあります。もちろん利益が見込まれるから我慢してできる、という類のものではありません。将来の利益と交換に何かを先送りにできるという発想は道徳というものを知らない人間の発想であり、あるいは俗流ヘーゲル主義的にしか物事を見ることのできない連中の戯言です。


肯定的に言うなら、当初の目的は概ね否定的な仕方で達成された、というのが正しいかもしれません。

もちろん書きはじめた当初は或る種の目的を持っていました。それは或る種の論理に従って外部と触れるということでした。

触れることができてよかった外部が十分にあるにせよ、また書いていてよかったこともないわけではなかったにせよ、間もなくわかったのは、言語を前面に出して触れうる「外部」、noteなどという場を介して触れうる「外部」は9割9分がゴミかゴミ未満の何かだということです。

外部と接触する際に私の圧倒的な強みである言語を用いるのは一見正しい選択でしたが、強みであるということは私のセンサーが最も鋭敏だということですし、何より言語は反省と吟味のための媒介ですから、言語をぞんざいに扱っておきながら、ぞんざいに扱っていることに気づかないカスが跋扈する世界ではすぐに耐え難さのほうが勝ってきました(しかし、「言語」がどうのこうのと言っている人の言語に対する誠実さ、鋭敏さがいちいち貧しいのはいったいどういうことなんでしょうね)。

「外部と触れる」という基本路線は間違っていないにせよ、回路を大きく間違えていたということです。あるいは「できること」に飛びついたのがよくなかったのであり、寧ろ「道徳的に耐えられること・許容できること」を選ぶべきだった、ということです(し、その場は既に、さしあたって選ばれています)。或る種のエフェクチュエーションが徹底的にダメダメである所以です。

言語による反省は(ほとんどの人が行わないからには)私がひとりで行えばよい。あるいは少なくとも限られた空間で行えばよい。それで本当に十分ですし、外野の言うことはだいたい間違っている、ないしは私には徹底的に適合しないものです。

……もちろん私は言語を使っているから食えているのですが、当座用いている場は実に敬意に溢れた、しかし忌憚のない高度な議論がある、しかも不誠実やバカバカしいクソ言語使用を免れた場です。しかしそういった場に参与できる人間は全人口の0.001%にも満たないわけで(前段で弾かれる)、どこであれ積極的に何かに出てくるような連中は全員弾かれ(てい)ますから、そういう人間関係を自分で構築していく、というのは無理な話でしょう。

まあ、私だけがわかっていればよいことです。


800日ほど書いてきた内容は全て片手間のものであり、ほぼ嘘で(あるいはperformativeな次元においてどうしようもなく虚偽から出発するもので)、しかし価値でしかないものですが、価値を正しく理解する人間は少ないでしょう。

残念ながら、価値を宣伝して理解させる気も私にはありませんし、というより、9割が文盲、残りのうちの9割もほぼ文盲に近いインターネット王国でそんなことをしても何の得にもならない——せいぜい金儲けになるくらいでしょう——のですし、文盲でない人間はそもそもインターネットの意味のわからん人物の書いた文章に触れるような愚を犯しません。かといって辛うじて文盲でない人と関わりたいかと言えば、寧ろそういう人々(要はアカデミアの上澄み)が実は極めて無反省・無責任で自浄作用も働かない集団だから、嫌になって「外部」を探したのでした。

これを何らか「有意義な」——もちろんカギカッコつきで——ものにするために経ねばならないいくつかの行程は、人によっては「やればいいじゃん」と言われて「そうだね」とやれるようなものであるとしても、私にとっては道徳的に許しがたいことでしかなかった、という顛末です。

そうしたほうが儲かりうる、カネがなければ何もできない、戦略的にそうしてからあとですべきことをやればよい、というのは底の抜けた大バカの発想です。道徳は順序の操作を許しませんし、かけがえのなさに関わるものです。子供を殺されたとして、うちの子供をあげるから赦してよ、と言われて納得する人がいるとすれば、その人と建設的な道徳的議論を行うことは極めて困難です。このくらいのことは誰でもわかるのに、行動において、日常の生活において、極めて大切な、今ここで守り抜かねばならないものがある、ということに気づかないバカが多いのです。もちろんそういうバカは、自分に道徳がないものですから、他人に道徳がある可能性など一切想像しないわけで、バカと罵るのも良くないのかもしれませんが、ともあれバカです。

特に、ことが一見「道徳」的でない分野だと、道徳などないかのように振る舞う連中が出てくる。法さえ侵さなければ・あるいは法を侵しても逮捕や訴追という憂き目にあわなければ何をやってもよい、ということを(無意識に)前提するクソヤバ不道徳マンが大量に湧くのです。似た論理は「売れる」ことを「価値」へと短絡することにもあらわれます。

彼らはそういった道徳(の不在)にもとづいたお説教を垂れ流し、それに従えない人間は「怖がっている」「恥を捨てられずにいる」「現状にしがみついている」のだ、などという、思考の痕跡が見られないクソみたいな理屈を開陳する。おそらく道徳という発想がない、あるいは反省ということを行ったことがないわけで、『社会契約論』最終章を書いたルソーも泣いていることでしょう。

無論、この種の論理を受け入れられるか否かを明確に意識している人は少ないのですが、受け入れられそうな人はさっさと起業すべきですし、何より起業家に向いていると思います(そして、実のところ世界の大半の人間はこうした精神を持っていると思います)。なにせ取り去れない制約要因が外部にしかないのですから、楽勝です。まあだいたい、ビジネス系声デカパーソンとか、どこであれ業界の正常なルートに乗りきれた人はこちらに属します。

大学という制度であれ、(私の勤め先の)予備校業界であれ、もっと一般に「実社会」であれ、構造的な悪を逃れているものはありません。どういった社会にも免れがたい悪はあり、その悪を悪と思わない、あるいはニヤニヤしながら「仕方ない」と受け止めることがそれぞれの社会で「うまくやる」条件です。

その悪に加担する恐ろしさを(うっすらと)感じるとなれば、逃げ出すか、あるいは耐え忍んでおよそ幽霊のように生きるほかないでしょう。場合によっては、幽霊のような生こそが最も高潔な生き方でありえます(というより、こういう人は、実は多いのではないかと思います。仕方なく働いてはいるけれども自分の仕事がゴミであり何の弁護もしえない、とわかっている人のことです)。少なくともニコニコしているだけの人間よりよほどよいでしょう。

あるいは自分がニヤニヤしながら「仕方ない」と受け止められるような悪しかない空間を選ぶべきだとも言えるでしょうし、悪を誰かが肩代わりしてくれる場所を選ぶということも考えられるでしょう。

後者については金融資産への投資がしばしば選ばれます。タバコを社会悪と看做して蛇蝎のごとく嫌う人がJT株を保有しているのを見たことがありますが、この例は実に啓発的です。あるいは「あらゆる権威を信用していなかったから予備校に通わず独学で大学に入った」という人も似た空気を持つわけで、大学が権威の権化で或ることに気づいていないのですが、これは「みんな入るから」という理由で大学の持つ権威性が、彼が嫌っていた「悪」が、薄まってしまっていることに依ります。

まあ、バカにはわからないことでしょう。いや私はバカなふりをしているだけだ、と言い張る人もやはりバカである、ということに、バカは気づかないでしょう。


……なんというか、人生観の違いでしょう、と言わざるをえない面はある。

ある人が汎用性が高いと思って打ち出す考え方や施策というものは概して、外部を強烈に切り捨てざるをえないもので、というよりは切り捨てる部分を適切に選べば汎用性が高くなるに決まっているのです。しかしだいたい何を切り捨てたかを意識していないから、汎用性が高いと思い込んでしまうのです。

毎日情報発信をして仲間を作ろうと試みる、将来のために何かを積み上げる、ということは(つまり私の試みが目指しているかに見える内容は)、そもそも「楽しく生きる」という目標や、勧奨されやすい「幸福」の諸形式に対してごくまっとうな興味を抱く健常な人間にのみ勧奨されることであって、私はそういう人間ではない。転びかけたからこそこんなことを800日もやっていたわけだけれど、この点に関してはもう転んではならない、と感じられるものです。

いや、これは正確に言えば、短いとも言い切れない人生の前半期で痛感してもよいはずのことでした。正しい欲望をトレースしようと試みてもどうしてもトレースできないものばかりだった、ということは15になるまでに既に気づいてもよかったのですが、この事実を引き受けるにはもう15年かかった、ということでしょう。あの頃よりも猿真似は下手になって、しかしそれはより高貴になったということです。

実に「嘘からまことを出す」ことができるのは、その嘘が未だ実現されていないという意味の嘘である場合に限られ、そもそもその嘘の内容それ自体にほんとうは興味がないとか、あるいはその嘘が唾棄すべきものであるという場合には、単なる嘘にしかならない、ということはこの2年と少しで得た貴重な果実です。人生を通常の意味で豊かにすることに何ら興味がない人間が、豊かさに興味のあるふりをしても仕方がなかったということです。

まあ、これもバカにはわからないことです。自分の欲望を他人も共有していると思い込むのはバカの特徴です。


出ていこうとしたもとのところにも、あるいはこの2年と少しで触れた「外部」にも、良いところはほんの少しあったのですが、「ここにいてもいい」と思わせてくれるほどではなかった。

これは試行回数ややりこみが足りないとかいうクソみたいな理由ではなく、そもそも試行をしてはならない・やりこんではならないと思わされるようなクソさ・バカバカしさだということです。バカな「ビジネス」脳をした人にはこの理屈が永遠にわからないでしょう。

あるいは外部に(様々な人間に)触れるにあたっては、試行回数ではなく回路の多さのほうを先に取るべきであった。それも、質的に決定的に異なる回路をとるということです。

仮に適切な場が見つからなければ、野垂れ死にすればよいのです(こんな単純な事実に気づかない人間もいる、ということに驚きますが)。

「命あっての物種」などともっともらしくいう人は、単なる命(bloßes Leben)を何よりも大切と考える発想が所詮は19世紀の産物であることを確認してから出直してくださいという感じですし、既に申し上げた通り、道徳は順序の変更を許さないので、今ここで命を捨てても守り抜かねばならない何かが常にありうるのです。それは垂直的な義務とも、正しさへの愛とも言うことができるものでしょう。あるいはこれが防御的に現れるときには、いくら世俗的利益が見込まれても絶対にやってはいけない何かがある、という形態をとります。

まあ、これもバカにはわからないことです。


無論以上は世界からの撤退を意味しません。

もちろん人類は早いところ幸福に絶滅したほうがよく、私もなるべく隠遁したいのですが、おそらく私が生きている間は人類は絶滅しないでしょうし——ぶっちゃけ、某感染症や某戦争で人類が滅びればいいとわりと本気で願ったのですが——、隠遁するにもまだ早いでしょう。

少なくとも適切な、果たしてもよい義務を見出しつつ、見過ごせる範囲の悪のみを背負えば済む場所に身を置いて、事実上は幽霊のように生きる、ということはおそらく物事を適切に見ることができる人間、密やかな悪を見逃さない人間に、たったひとつ残された希望です(し、おそらく世の素朴な人々が素朴にこなしている事柄と、表面だけ見れば一致することでしょう)。

少なくとも、自分のやっていることの正しさのみを確信してそこにフルコミットし、常に前を向いてニコニコしているような(あるいはそうした態度が基本になってしまっているような)、そして周りもニコニコして迎えてくれるような、無反省なゴミクソ人生を拒むということです。こうして大金を見捨てて得られた、こんなにも輝かしい奇貨を捨てるわけにはいきません。

『白い巨塔』2003年版では、江口洋介演じる里見脩二が「君が割り切ることで医者であり続けるなら、俺は悩むという一点で医者でいられるのかもしれん」と言っていますが、これを「人間」に置き換えても同じだということです。あの里見というキャラクタは原作でも組織人としては傍迷惑かつ極めて愚かで——あれに「医師の正しい姿」を見るのは無理筋でしょう——、私としても別段共感を覚えるものではありませんが、とまれ或る種の愚かさは特定の形式をとるときに高貴ですし、寧ろそこに選択は働かず、ただ闇の中で何かが、誰も求めていない何かが、確実に掴み取られるのみなのでしょう。「悩む」ことは無駄だと言うバカ(いや、バカ未満の何か)もいますが、悩めなくなった主体はもはや人間ではありません。ただの経済的に効率のよい抽象的主体です。

……まあ、私だけがわかっていればよいことです。単なる義理立て(しかし、何に対する?)として、申し上げておきました。どこかでいずれ私に触れることがあるとしても、それは全く違う場面においてでしょう。