【48】表現の庭を整える

自分の書いている内容が全て「マジで」一分の隙もなく真摯で、何の衒いも、何の誇張もないと主張する人がいるとすれば、その人が寧ろ自らの誠実さを誇張している、以って嘘をついているような印象を与える、というのも道理でしょう。

自らの誠実さを無邪気に信じる態度、あるいは、自分が「本当に」「心から」あることを望んでいると苦もなく言い立てる態度——あくまでも仮定です——を想像してみると、どこが滑稽なものです。
それはおそらく、自らの心理に対する反省の薄弱さというものを如実に見せるようだからでしょう。表現の無邪気な奴隷のように思えてしまう。

そして、何かに真剣にあたる人を陰で笑うタイプの冷笑的な精神もまた、表現と内心というふたつのレヴェルを截然と区別できるという、実に曖昧で不徹底な哲学的信念を背景にしているといえるでしょう。


自らの内心というものだって、言語化されていなくては決して捉えることができないものです。

人間は言語によって世界を切り分け、言語によって世界を解釈することしかできない存在です。「ありのまま」のものなど人間は何一つ知ることができない、と言っても過言ではないでしょう。とりわけ他人に伝えたり、あるいは自分で反省したりといった作業というのは、全て言語を介して行われるのですし、言語化しないうちに反省するということはそもそも言葉の上で矛盾していると言ったってよい。

そうしてみると、内心というものは、結局言語によって輪郭と内実を与えられているものです
あるいは言語によって、少なくとも一定程度捉えられている限りにおいてのみ、意識しうるものです。

そうして言語によって捉えられた内心=表現を、外に向けて発するか外さないかという差はあるかもしれません。つまり自分だけが知っている言葉とするか、他人の目にも明らかな言葉とするか、あるいは一部の人だけが知る言葉とするか、あるいは異なる「言葉」――絵画や音楽や詩――にするか、色々態度は考えうるでしょう。

しかしともかく、「内心」と、我々にも見える形式の表現というものの距離は、同じように言語表現である限りは、かくも近いものなのです。
外的な表現を行うときだって、敏感な書き手なら誰しも実感したことがある通り、どこか隔靴掻痒の感があって、どこかで何かを取り逃がしたような感覚を否むことは出来ないのであってみれば、外的な表現と、単に表現されない「内心」とを区別するのは本当にわずかの条件だけであるように思われるのです。

つまり内心と表現の差というものは、ある庭における、足元の小さな雑草と、少し見栄え良く刈り込まれた植え込みぐらいの差しかないのです。
この差はもちろん大きいかもしれませんが、所詮同じ植物であって、質的に違うわけでもない。

少し背が高い低いはあるかもしれないけれども、あるなしの差ではなく、見える見えないの差でもなく、少し見えやすいか少し見えにくいかの差でしかない、というわけです。どちらも同じような表現だというわけです。

ですから、「ありのまま」の自分がいて、どこまでも「ありのまま」でいるのが誠実だ、というドグマは棄却されるはずですし、「内心」を抹殺しそこから乖離した表現を不実なものとして断罪する態度や、「内心」通りの表現を称賛する態度は、そもそも粗雑だと言えるのでしょう。


このように言うことは、嘘というものの概念を一定程度相対化する発想に結びつくと言えるでしょう。

極めて素朴に捉えるのであれば、嘘とは、表現と何らかの実態とが一致してない、という事態のことだと言えます。アウグスティヌスはもう少し限定して、発話者の内心ないしは知識と一致しない表現をあえてとることをこそ問題とします(『嘘について』III, 3)。

しかし、自分の心に嘘をつくという場合、先ほどから見ている通り、その心ないし「内心」といったものもまた、言語によって表現されるものであるからには、嘘というものはふたつの表現の、見栄えの良い草木と木陰の小さな草花の争いに過ぎないということになります。

つまり、見えやすい表現が、絶対的尺度としての内心と一致しているか否かということはもはや問題にならず、単に見えやすい表現と少し見えにくい表現との関係においてのみ、嘘というものが問題になるというわけです。

そしてこのふたつの表現は、どちらも表現であるからには、どちらかを特権視する必要もないように思われます。

繰り返すならば、表現されたものこそが認識可能な「内心」であって、認識される限りでの内心というものは(外的に表明された言葉と同じく)すでに表現だからです。

つまり我々の言葉や我々の外的な表現というものを、「嘘だ」と言い立てるのは、それはそこまで深い事情を想定してのことではない。寧ろ極めて浅薄に、極めて簡単に構想された「内心」というものを特権化して、外的な表現の地位を縮減する、ないしは外的な表現というものが常にある尺度によって測られるものでしかないとする考えに基づくものですが、そうした発想そのものがもはや疑わしい、ということです。

であれば他人の表現に関して、目に見えるもの・簡単に読み取れるものが全てだと思い込む必要もなければ、隠されているものの方が重要だと思い込む必要もないという成り行きです。「内心」との乖離はもちろんあるかもしれないけれど、それは向き合う人によって態度を変えるようなもので、倫理的に貶されるようなものでもなければ、もはや消滅しかかっている嘘という概念によって指弾されるようなものでもない。


さてここまででは。自分のものではない、つまり他の人が成している表現に対して向き合うときのことを中心に見てきました。

とはいえ以上に見たようなこと、つまり自分の「内心」と外的な表現を截然と区別する発想が実態に即していないという考えは、自分自身を生きること、つまり自分自身に向き合う時の態度としても、実に啓発的であるように思われるのです。

自分で言っておいて啓発的だなどというのは自惚れが過ぎるというものですが、それでも実に啓発的なと思います(笑)。

少しく具体的な例に即して迂回路をとるのであれば、例えば「嘘もついていればそのうち本当になる」というお決まりの文句があるわけですが、この文句は前提からして崩壊する可能性がある、ということになるでしょう。あるいは修正の余地があるということになるでしょう。
というのも、嘘は嘘として、すでに本当なのです

言い換えるなら、嘘というものはこれまでは「内心」の信念・考えに反する表現として捉えられてきているわけですが、その内心とてまた一つの表現であって、単に表明されていない表現であるからには、「嘘」は「嘘」で一つの表現に過ぎず、内心は内心でまた一つの表現であって、別段どちらに対して私たちが忠実でなくてはならない、ということは特に含意されないのです。どちらを育ててゆくかという、あるいはどういったバランスで配置するかという比較の問題でしかない。

あるいは、自分が外的に表現していないものに対して忠実でなくてはならない、という発想そのものが、ひょっとすると苦しみの原因になっているのかもしれません。

外的に表現できることはもちろん表現すればよい。
水をやって、肥料をやって、いらぬ枝を刈り取って、大きく育ててやればよい。そうして茂らせてやればよい。

同様に、表現できないかもしれないものに対しても表現の場を与えて解放する機会を持つことが重要になるのではないかと思われるのです。
どのような仕方で表現されるのかはもちろん分かりません。それは人によるでしょう。
しかし例えば、利害関係のない友人や、広義のパートナーや、ある種の師のような存在に、あるいは決して他人に見せない日記に、また匿名やペンネームというかたちで、他の場所では言えないことをあらわすことはできる。自らの「内心」いう表現に、心内以外の場をどんどん与えていくことはできる。自らの「内心」の表現の蔦に水を与えせっせと繁茂させていくということは、十分にできる。

そうして複数の表現を育てつづけた末に何があるのかを約束することは、誰にもできません。人によりますね、としか言えません。それでもただひとつの鉢植えしか育てないよりは、色々な種類の草木を育てている庭のほうが、よほど豊かであるように思われるのです。


自分が持っている複数の表現をどんどん繁茂させ、また調整していくこと。複数の自分を持つこと。こうした視点が、「内心」と表現の(実に恣意的な)境目をある種取り崩すことで可能になるのではないかと思われるのです。そうして得られるのは、内外の区別という生け垣を取り払われて開けた一元的な表現の庭であって、実にあなたは庭師としてもはたらくことができるでしょう。

表現(「内心」も含む)に関する表現を設定し、
自分がこの表現についてはこのような感じで育てていきたいとか、このような表現は表立っては表明しないけれどもこのようなかたちで育てていきたいとか、あちらには温室を作ってこういう特殊な表現を育てたいとか、
そうした計画を立てて、つまり表現に関する表現を繁茂させる。
そうしたプログラムに従って生成されてきた表現という植物の群れとしての庭こそが、あるいは出来上がりつつある庭こそが、また庭を思い手を動かす庭師こそが、我々の「本当の」姿だと言えるのかもしれません。

そうした「本当の」自分は、理想形であるからには静的に構想されるはずもない、常に変化しつづける動的なものですが、ともかく、「内心」のようなものを特権視しないのであれば、あるプログラムに応じて調整される、また自発的・自生的に育ったり枯れたりする表現の草木の集まりこそが、「本当の」自分と名指すにふさわしいものなのかもしれません。

それぞれの植物に、どのような栄養を与え、それぞれどのように間引きし、どのように剪定し、どのように虫を取ってやるか。殺虫剤は葉に良くないから使わないかで野放図に育てるのがよいか、あるいは適切な使い方を学ぶべきか。……こうした問いに対する回答は、勿論人=庭師によって変わってくる。しかし言語表現の庭という多変数関数には、「内心」も含めあらゆる表現とその布置が変数として現れる

……とにかくある計画に沿って、表現を繁茂させ整えること。そうしてできる庭というものが、私たちのどこか「本当の」姿なのかもしれません。


新たな種を蒔いて、既に育っている木々をもっと大きくして、ときには刈り込んで調整する。そうして自分の表現をより美しく豊かなものにしつづける。

なんとなく捨てたくない、捨てられない、枯らしたくないだけの草木であっても、これでもかと繁茂させてみる。内にも外にも。見えやすいかたちでも見えにくいかたちでも。

そうしていると、別々の枝が、別々の株、別々の蔓が不思議に絡み合って、特別な効果を生むことがあるでしょう。互いに高め合うことも引きずりあうこともある。一方が他方の養分を吸い取って腐らせようとするかもしれません。ミントのように、燎原の火のごとく瞬く間に広まって、ほかの植物を枯らしてしまうこともあるでしょう。

例えばある媒体でずっとポジティヴな表現を繰り返しているのに、私生活でネガティヴなことばかり言って会社の同僚などに愚痴を言いまくっていたら、どちらかの表現が必ず腐るでしょう。このように複数の「内心」と表の表現とが互いに阻害しあって、不幸としか言えない結果になるかもしれない。野放図に育てているとこうなる。

「だからポジティヴなことだけ言いましょう」ということは簡単ですし、ポジティヴな植物に満たされた庭を作りたいならそれでよいけれども、そうできないのであれば、ネガティヴな言説を庭の別の部分に移し替える。あるいは成長を止めるような薬を撒くことは、是非とも必要になるかもしれません。これもまた推測の域を出ません。

何にせよ庭師として介入し、表現を統御して、自分なりの最適解へと導いてゆくことが必要になるということです。

この庭師にももちろん「内心」はありますが、ともあれ表現というものを客体として捉えれば、庭師としてシャベルや、ハサミや、ジョウロや、肥料を駆使して介入する余地はどこまでもある。

植物同士が相争っているのであれば、一定のプロジェクト、庭の構想図、つまり表現に関する全体的にして再帰的な表現に基づいて、植えかえたり刈り取ったりして日当たりを調整するとか、蔓の絡まる棒を立ててぶつかりあわないようにするとか、あるいは一方を思い切って根絶やしにしたりとか、色々な介入の仕方があるはずでしょう。

一方の木を他方の木に接木するとか――これはまさに比喩を作るということです――、土をそっくりいれかえてしまうとか——異なる外国語や、語彙の体系を学ぶ——ということも可能かもしれません。

ともかく一定の庭園プロジェクトに沿って、またプロジェクト自体を組み替えながら、理想の庭に近づけていく。

そうして理想的なかたちで、植物すなわち表現を適切に生い茂らせて、目を楽しますような、よしと思えるような庭を作っていくことが、ものすごく大げさに言えば人生を構築することの楽しみの一つ、ないしは楽しみそのものなのかもしれません