【11】あなたに権威主義者でないとは言わせない ふたつの権威主義(M. Revault d’Allonnes, Le pouvoir des commencements、その他キケローや中世哲学)

権威の概念はもっともっと複雑ですが、かなり単純化しながら、また恣意的に思想史的な要素に触れながら、私たちが引受けてしまっている、あるいは引き受けるべきと思われる「権威主義」について、見てみます。

小綺麗なガワをつくるよりはとにかく書くことだと思い、noteの機能をよくわからないままに使っているふしがありますが、何かやってみようと、今回は見出しを付けてみました。


権力から区別される権威

先輩や上司あるいは教師といったいわゆる「目上」の存在と出会わずに生きていくことは困難でしょう。これまでの人生において、そうした存在と出会ってこなかったという人は絶対にいないと考えられます。
義務教育において我々は教師に出会います。小学校はともかく中学校や高校に入れば、先輩後輩関係というものが明確に出てくることが多いです。部活に入っていれば特にそうですし、部活に入っていない場合でも、先輩後輩といった位置関係によって何らかの力がときに可視的に、ときに不可視な仕方で、働いたりします。しばらくして就職すると、つまり素朴な意味において社会に出ると、多くの場合には上司がいます。企業に勤めた場合はもちろんですが、私企業に勤めていない場合でも、例えば公務員の組織においては公務員の上司がいることでしょう。一念発起して会社を起こせば一応は社長であり、誰の制約も受けないと考える人もいるかもしれませんが、結局のところ、先輩経営者やあるいは出資者といった、尊重しなければならない相手というものはどこにでもいるものです。

なぜ彼らを尊重しようと思うのでしょうか。もちろん直接的に危害を加えてくる可能性があるから、ということは考えられます。教師というものはある意味で生徒の生殺与奪を握っています。出資者が首を横に振れば、経営者は考えを改めざるをえないかもしれません。
しかし、そのような実行的な力を持っていないのに、なぜか尊重される職業や地位と言うものもある。例えば、同じ学校にいると言うだけで、別段関係のない先輩に対しても何かしら従わなくてはならないような気がした事はありませんか。
これが子供らしい恐れなのだとしても、大人になってみれば、もっと別の例はいろいろ出てきます。例えば自分の体を見ない人であっても、医者と言う職業に就いている人に圧倒されると言うタイプの人はいると思います。医者に対してやけに腰の低い人はいて、そうした人物を想定することはたやすいと言うことです。あるいは大学教員と聞けば、その人に財布を握られているわけでは全くないのに、また研究や教育の内容を1ミリも知らないのに、なぜか尊敬しはじめたりします。

いったいこのような、「尊重せよ」と我々に強いるような力は、何によるのでしょうか。
もちろん社会的な約束事によるのだという、ニヒリスティックな回答は可能だと思われますが、こうした実行力を伴うか伴わないかよくわからないのに、実行的な権力とは区別されたかたちで存在している、何故だか従わせるような性質、これには「権威」という呼び名が与えられることがあります

強制力(force)に訴えねばならないとすれば、それは権威(autorité)が失墜しているということである。何を言おうと、権威は「人を従わせるものの総体」ではない。権力(pouvoir)がしばしば権威という仮面をかぶるにせよ、権威は権力ではなく、まして権力の道具、支配の「増強(augmentation)」に成り果てるものではない。権威はまさしく、「権威的な」仕方で自らを肯定する必要を持たない。(M. Revault d’Allonnes, Le pouvoir des commencements. Essai sur l’autorité, Paris, Seuil, 1999, p.11)

この(こう言ってよければ、政治的な)権威にというものについて少し見てみたいと思います。もちろん、「権威」(と訳し得るような西洋語)は極めて複雑な歴史を持っており、長い哲学史の中でも直接的に扱われた事はあまりありません。ローマ法においては極めて重要な概念であり、また後で見るように、中世においては議論の道具立ての一つとして重要でした。時代を下れば、モンテーニュによる「権威の神秘的基礎」に関する言及や、これに関するデリダ『法の力』の言及は興味深いものです。
とはいえ権威の概念が正面からまとまった分析を受けてきたことは少なく、見通しが立てづらい範囲であるとも言えます。権威の概念に集中した数少ない例外は、20世紀中頃のコジェーヴとアレントであり、また20世紀末のルヴォー=ダロンヌです(彼女は今なお語りつづけていますが)。これは権力や主権が国家の問題とともによく扱われてきたこととは好対照をなしていると言えるでしょう。実際、権威は権力の付属物として扱われがちでした。……

ローマ

さて、権威と訳されうるラテン語はauctoritasというものであり、ローマにおいてはもちろんこの語がもちいられていました。この語に関する歴史・思想は非常に錯綜していますが、非常に大まかに言えば、auctoritasつまり権威は、potestasつまり権力(権能)と明確に区別されつつ相補的な関係をなしていた、と考えられます。権威は法や法的判断につきまとうものでありつつ、また政治的権力を持つ者が持つことがありつつ、しかし権威と権力は区別されます。

権威は何らかの保証であり、公法のレヴェルでは、民=民会(に選出される政務官)の権力による決定を保証するもので、元老院に属する、という関係があります(cf. キケロー『法について』3, 12, 18にある通り、「民に権力がある一方、権威は元老院にある」)。私法では、家長(paterfamilias)が権威を持ちますし、商慣習における取引の保証人もauctoritasです。

特に政治的領域で重要なことに、権威が成すのはいわゆるアドバイスです。権威はなされている決断の正統性の一切を保証するものではなく、また決断を単に形式的に追認するものでもありません。決断をある種の助言によって確証するものであるといえます。権力による実行が拒まれうるときに、(元老院の)権威による確証があることですんなり通ることがある。キケローがある執政官について「依然権力によってなされえなかったものを、権威によって得た」と言われる通りです(『ピソー論駁』4, 8)。つまり権力がたちゆかないときには権威が必要になってくるのですし、裏を返せば、政治的領域にあっては、権威と権力が手を取り合わなければどうにもならない(ことがある)。

しかし権威は命令しない。命令権(imperium)とは異なる。助言によって提案し、あるいは認可を与えるのみです。auctoritasいう語の語源、つまりaugereという動詞が、増加させる、成長させる、という意味しか持たないことに関係するのかもしれません。権威は、何も存在しないところから何かを存在せしめるものではない、謂わば寄生的なものである、ということが暗示されるようです。既にあるものを補強する、ないしはあるものが生じるよう助言を与えるのが、権威というものであるようです。

(根拠なく、コジェーヴを無邪気に見ながら言うなら、司法における裁判官の権威と、行政=執行の権力、という区別は、前者が実行力を持たないという点で、きわめてざっくりとした不正確な理解の役には立つかもしれません。もちろん、裁判官の権威は制度化されたもので、或る種強制するのですが、強制力を持つのは行政のほうです。)

中世の大学から現在へ 第一の権威主義

こうした意味での権威は、中世の議論の形式においても良く見えるようです。議論において用いられるということは、さしあたって純粋に精神的な領域、権力ないし権能(potestas)と直接的には関係しない範囲においても権威というものがあるということです(もちろん、身体の支えを持たない・素朴な意味における現実と関係しない精神的活動というものがありえない以上――だからこそスピノザはあれほど強行に検閲に反対したのです――、こうした区別はどこまでもナイーヴなものですが、さしあたって区別することは許されるでしょう)。

政治的領域における権威が前出のような哲学者たちに論じられてきた一方で、「権威」が特に中世の大学にあって議論を行うための重要な要素であることは、一定程度専門的な知識を持つ学者には必ず認識されていました。当時は、聖書や教父といった重要なテクストが「作者」と呼ばれ、議論の根拠として重要な位置を占めていました。「〇〇の権威によれば、~である。よって~は正しい」というタイプの議論が一般に通用していたのです。引用するまでもなく大量の例があります。たとえばCorpus ThomisticumのIndex Thomisticusにおいてper auctoritatemと入れて検索すれば、トマス・アクィナスが権威によりかかって議論を展開した箇所(のほんの一部)を見ることができます。

もちろん、当時の西ヨーロッパで最も高い位置を占めた学問、つまり神学というものは、聖書の、ないしは啓示の権威に基づくものであり、また神学から区別しうる学問においても聖書は重視されていますから、このような態度は当然のようにも思われます。
しかし重要なことに、この「権威」という語によって指示される対象には、聖書や教父以外の重要な著者(最大の例は、特にトマスにおいて、アリストテレス)も含まれていました。つまりキリスト教的な神を源泉として持っていない場合でも、偉大な先人であるというだけで、権威を持つには十分でした。そして、先人の知恵に従って何かを述べるということは、主張の正しさを認識させるための、説得の手段として有効だったのです。

こうした意味での権威は、思考を保証すると同時に、思考を節約する機能も持ちます。もちろん、こういう権威があるからこう言える、というかたちで議論を終わらせてしまうことはそう多くないという印象がありますが、少なくともあるテーゼに対して複数の論拠を示す際に、権威によって説得するという道筋が残されている。このことで、議論の筋道が明確になり、論理を超えたレベルでの説得力が生じる。

……実のところこうした「権威」の用い方は、「権威」という言葉を用いずとも、私たちが実践しているものであるように思われます。

特に専門性の高い分野については、私たちは議論を精密に理解できないことが多いでしょう。
専門的な知識がほしいとき、あるいは確実な知識に基づいた行動が求められるとき、私たちは必ずしも自分の態度や行動を決定するために必要な能力というものを持ち合わせているわけではありません。そのような場合には、例えばその分野において成功を収めた人間が入っている教科書を参照したり、あるいは適切な資格や免許を持った人間が何を言っているかを参照たりとするのではないでしょうか。少なくとも、Twitterで素人が言っていることよりは信頼がおけると考えて、そうするはずです。
しかし、自分では、その専門家が果たしてきちんとした能力を持っているのか、ということは理解できないままに、そうしているのです。なんとなく、あるいはもう少し考えて判断するのかもしれませんが、いずれにせよ相手の能力やすごさというものを直接的には理解しきらないままに、あるいは当該の専門家の主張とは直接関係のない外的な条件(つまり受賞歴や単なる業績の数、また評判)を信頼しきって、ある人のことを「権威」して理解する。そして彼の言うことを信用する。
これが悪いと言っているわけではありません。専門的な研究においてさえ、もちろん検証を行う事は絶対に必要であるにせよ、優れた成果を収めてきた研究者の言うことには簡単には逆らえません。いちどは信じて、ことにあたる必要があります。
まして、自分の全く知らない分野において、権威による主張を精密に検証することなどできはしないのです。人間の能力や時間やエネルギーといったものには限界がありますから、自分でいちから学んで、その都度必要な決定を自分で考えて採用する、ということはできない。どう考えたってできないのです。そのようなときに、様々な条件に即して「権威」として扱われている相手の言うことを、少なくとも一定程度信頼する態度は、絶対に必要な思考の節約です。我々は多かれ少なかれ権威主義者であって、権威主義者でなくてはならないのです。あなたに権威主義者でないとは言わせない、というのは、この意味においてです。

かつてざっくりとこういうことを話したときに、友人から非常に嫌な顔をされたことがあります。彼女の反応は実によくわかるものだったなと思います(というより、こんな雑談をきちんと聞いてくれる友人がいるということにこそ感謝したいものです)。
おそらくは、「権威」という言葉が極めて悪い印象を与えたのでしょう。「権威」はとかく悪い意味で用いられがちです。「彼は権威主義者だ」、と言ったら、それは大抵の場合、彼が無批判にある(胡散臭い)存在の主張を受け入れて礼賛している、ということを意味します。侮り、嘲る意図を含む言い方でしょう。良いとも悪いとも言いませんが、中世の学者たちが極めて活発に、そして誇らしげに「権威」に訴えた議論を展開するのとは、大きく異なっています。だからいい、だから悪い、と言うことではなく、権威というものが我々が生きていくために必要不可欠なものである、ということを確認しておくのは、有益なことであるように思われます。


権威は我が身を誇れない

極めて限定的なものしか見ていませんが、政治的領域においても、ある時期の学問においても重要に思われるのは、権威というものは、持ち主自身が振りかざすものではなく、いわば他人から頼られるところのものである、ということです。権威は本性的に実行力とは異なるので、権威に基づいて権威者が行動することは本当はありえない。どういうことでしょうか。

先に見たローマの例では、権威を持つ元老院は、自分自身で権威を振りかざしているわけではないのです。政務官(広く言って民)は、自らが振るう権能(権力)についてアドバイスを求めるという形で、元老院の権威を利用する、そうしたかたちで権威というものが用いられているのです。
中世の議論の例においては、より事情がはっきりしていると思われます。どういうことかといえば、権威を持っているとされるテクスト、つまり聖書やアリストテレスは、「このテクストには権威がある」などとは主張しないのです。当時の知識人の社会が引用する「権威」というものは、権威を持つ者が自分で俺に権利があるのだと語るタイプの性質ではなく、外部の人があなたには権利があると認めてすがるタイプのものであるのです。

翻って以上に見た事情は、最初に確認したような現代における、というか極めて卑近なレヴェルでの上下関係についても、一定の示唆を持つようです。
親の権威というものがあります。あるいは単に先輩や年長者の権威、上司の権威ということでも良いでしょう。彼らはなぜ尊敬されているのかといえば、漠然とした了解があるからです。自分から「俺は偉いんだ」とか「俺は権威があるのだ尊敬しろ」と言うわけではありません。
言い方を変えましょう。
例えばあなたの先輩が、「俺は先輩だぞ、尊敬しろ」と言ってきたら、あなたは尊敬する気になるでしょうか。ならないと思われます(実際に言ってくる人はいるのです)。
あるいは、皆さんに経験があるかどうかは知りませんが、「親に向かってその態度はなんだ」という言葉は、子供のよくない態度を子供のために注意しよう、という親の純粋な意志が読み取られない、余裕のない態度とともに振り出される場合、親の権威を著しく失墜させます。
私の知り合いの話を借りるなら、彼女がわけのわからない質問をしてきた年配の大学教員をいなした後、ご機嫌伺いの体をとってややプライヴェートな場で、質問の意図を明確にするために逆に質問しに行った際、「君ねえ、僕、先輩だよ?」と言って逃げられたそうです(実際、彼女の所属する学科に、教員として昔勤めていたようです。学生の時の学部は全く違ったようですが……)。議論の内容や彼女の態度の是非はともかく、この話を聞いて私は笑ってしまいました。何が滑稽だったのかと言えば、権威者が自らの権威を言い立てることで、権威者の座を自ら捨てている、という事態が、ここまであからさまなかたちで発生していた、と言うことが面白かったのです。
さらに、権力との関係に言及する意味では、上に見た引用が啓発的でしょう。権威と権力を同時に持ち合わせた人間が、権力や強制力を振るえば、その人の権威は失われているということになるでしょう。権威によって人が従うということは、権力をちらつかせて脅すこととは全く異なりますし、寧ろ明確な脅しがある場合には、権威は自らの失敗を告白している、とさえ言えるでしょう。
このように、権威というもの、あるいは権威を持つ者には、ある種徹底的な弱さというものがあります。それは、権威を持つ者は、「私は権威を持っているのだから私に従え」というかたちで権威を振りかざすことができない、ということです。権威は自らの存在を誇示した瞬間に失墜するのです。

人の振り見て…… 第二の権威主義 

……さて、こうしたことを思ってみて、皆さんが思い浮かべるのは、嫌な上司、嫌な教師、嫌な先輩のことかもしれません。つまり、自らが権威に対峙する場面のことかもしれません。

しかし、しょうもない人の態度の方を動かすのは極めて難しいのですから、私が寧ろ考えなくてはいけないなと思うのは、我々のほうが権威を持っている状況のことです。我々も必然的に年長者になる。先輩になる。ひょっとしたら上司に、教師になるかもしれない。専門分野で「権威」と呼ばれるようになるかもしれない。つまり、権威を持つ存在になるかもしれない。そういった存在になったときに、適切な形で権威を所有し行使できるか、という問題があるのです。
つまり、皆さんが嫌な上司、嫌な先生、嫌な先輩というものに出くわしている、あるいは出くわしたことがあるのであれば、愚痴の題材・酒の肴にして溜飲を下げるよりは、我が身を振り返り、いつか来る、あるいは既に来ている、自分が権威を持ってしまう日のために精神的な準備を行うことの方が、ずっと価値があることのように思われるのです。ひどく陳腐な言い方をするなら、人の振り見て我が振り直せ、ということです。    

社会が順当に回っていく限り、あるいは皆さんが正常な努力を続けている限り、そのうち皆さんも同じような社会的地位を得ることになるのです。そう考えたときに、情けない言説を振り出して、しょうもない態度をとって、自ら権威を失ってしまわないようにする心がけることが求められるのではないでしょうか。

もちろん、権威なんかいらないよという人もいるかもしれませんが、権威というものは先ほども見たように、周りから与えられるものです。自ら誇示するものでもなければ、「私は権威を持っていないのだ」と主張するのもおかしな話です。
おかしいだけならよいのですが、権威は往々にして権力を伴うものですから、そうした主張は極めて危険であるとも言えます。
たしかに権威と権力を持ってしまっている人が、権威を持っていないかのように振る舞うとすれば、それは悪い意味で権威的な、強圧的な振る舞いです。ある大学の先生が、「先生と呼ぶのをやめてください」と学生に「依頼」していることがありました。曰く、不要な上下関係を、そして「権威」を成立させるから、というのです。一見これは、反権威的な振る舞いにも見えるでしょう。なるほど、言語使用のありかたを問題視して、何らかの態度変更を行うのは、極めて重要なことであるように思われます。しかしこのように言ったところで、所詮教員というのは、ある一定の立場にある人間から見れば、目上の存在なのです。友達のように扱うことできない相手です。「先生」と呼ばれることを拒否したその教員も、自分が友達のように扱われることには、決して納得しないでしょう(納得すべきでもないと思います)。つまり彼の態度は、私は権威を持たないかのように扱われねばならない、お前たちはそのようにしろ、しかし全く権威のない者として扱うことは許さない、という極めて強圧的な振る舞いなのです。
あるいは、もっと簡潔な例を出すなら、私たちは「今日は無礼講だ!」と上司に言われても、本当に無礼講にすることはできないはずです。
どういうことかと言えば、権威と権力を併せ持った存在が「私を権威として扱うな」と主張するとき、その存在は、権威として扱われないということがありえないことをわかっていながら、見かけ上は権威として扱われることを拒否している。以って彼は、権威を持たない相手に嘘をつくことを強いているのです。

であれば、上司でも先輩でも何でも構いませんが、そうした存在になったときには、自らが権威を持っていることを言い立てるのでもなく、あるいは権威がないとか言い立てるのでもなく、寧ろ適切に沈黙し、適切に権威を利用することが求められるのではないでしょうか。
つまり必要なのは、いたずらな反権威的態度でもなく、権威に随伴しうる権力を悪用することでもなく、単に地位に即した権威と適切に付き合うことではないでしょうか。こじつけたタイトルから逆に言い張るのであれば、自分が権威を持ってしまった場合に取るべき態度は、権威を尊重し、適切に沈黙し、適切に権威を用いるという意味での、権威主義ではないでしょうか。権威をいずれ持ってしまうからには、こうした態度をとらねばならない。だからこそ、あなたに権威主義者でないとは言わせない、言ってほしくないのです。

さらに抽象化するのであれば、人は自らが置かれた立場に応じて適切に振舞わねばならないということです。自らが置かれた地位に必要以上にこだわることも、自分がそこにいないかのような態度をとることも、どちらもふさわしくないのです。

おわりに

例を省いてまとめるのであれば次のようになるでしょう。

——権威と権能・権力は異なる。権威は或る種保証を与えるもので、これなしに生きることはできないし、実際我々はそうして生きている。その点は意識したほうがよい。第一の権威主義である。
——権威というものは自己言及を不可能にするものである。つまり「俺には権威がある」とは言えない(し言うべきでなく、そのように言わねばならないとすれば権威は失われている)。権威と権力と地位は密接に結びつき、権力と地位を持ちつつ権威を持たないかのような振る舞いを行うのは、強圧的な振る舞いといえる。だから然るべき地位についてしまった場合には、権威を主張するのでもなく、権威を過小評価するのでもなく、むしろ適切に沈黙し、適切に権威を用いることが必要になるのではないだろうか。第二の権威主義である。(もちろん権威を用いるというのは、決して権威を振りかざすことではなく(それは権威の失墜です)、外の人に用いてもらうという仕方で用いるということである。)

以上です。