【40】恥の観念を強く持つ思慮深く高貴な方々への、心からのお願い

「旅の恥はかき捨て」といういささか粗野な言葉と、地上に生きる人間は「旅人(viator)」であるとする西洋的キリスト教の観念を融合させた帰結というわけではないにせよ、漱石は「私はすべての人間を、毎日毎日恥を掻くために生まれてきたものだとさえ考えることもある」(『硝子戸の中』、十二)と述べていますが、明治期の文豪のこんな記述を目にしたって、私たちの側に即座に恥をかく覚悟が決まるわけでもありません。もともと大した廉恥心のないところ、「恥」だなんて言ってはいるけれども、私の感じるように恥じてはいないのだ、と思うのももっともです。

ここで私が恥について少し書いてみようと思うのは、思うに広い意味での恥、つまり廉恥心・羞恥心、及びこれら全てを総合するような観念としての恥が心の中に深く根を下ろしていることが、まさに我々の――特に品性と知性を備えた方々の――物質的な、また精神的な生活の向上に強く歯止めをかけているように思われ、しかしその恥を捨てることが簡単ではないうえ、その恥を捨てることをよしとしないような場合さえある、というある種のアポリアが認められるためです。


こんな言葉から始めるのもどうかと思うのですが、恥は捨てられるなら捨てたほうがよいでしょう。

特にこのご時世、リアルの人間関係しか持たないのは実に危険であって、ネット上でも人間関係を作っておく必要性がとても高くなっているというのは、誰でも良く分かることだと思います。そして、そうした或る種ヴァーチャルな人間関係は、自らが発信者として作るに如くはない。

しかし、何の芸も持たない、自分には自信が持てない、そうした(恐らくは一定程度誤った思いこみを持つ)人間がいちからネットに打って出るのは、非常に苦しいことです。そんな時に少しでもどうすればよいのかと思い、助けを求めて、あちこち見てみて、結局のところ見つかるのが「恥を捨てろ」「とにかくやれ」という軽薄な忠告だった場合、非常な怒り、あるいは絶望が湧いてくるのも無理からぬことでしょう。

「恥を捨てろ」などと簡単に言う連中に対して、やるかたのない気持ちがふつふつと湧いてくるのは、私にはよくわかります。そうした連中への反感は否めない。「恥をかくことを恐れるな」などという人たちの、愛すべき単純さは、果たして計算に裏打ちされたものかもしれないけれど、どうしたってそのまま受け入れることができないもののように思われるのです。

「恥じるな」と言っても、
「それは恥でもなんでもないからとにかくやってみろ」と言っても、
「失敗ではなくて学びだけがあるのだ」と言っても、
「君のことなんか誰も見ちゃいないんだからどんどん恥をかけ」と言っても、
羞恥心と廉恥心を強く持っている人に対しては、意味がないどころか、逆効果でさえあるという次第です。何より我が身を見つめているのは、一定の規範を内面化した自分自身なのですから、周りの目など本当はどうでもよいのです。
そんな薄っぺらな忠告を繰り返す連中は恥の観念を知らないのだ、とさえ思われるでしょう。簡単にかなぐり捨てることのできる恥などもとより問題にならないというのに、そんなところで人が踏みとどまっていると思い込んで、訳知り顔で忠告してくる、そんな連中に対して、底知れぬ絶望感、ないしは呆れを覚えたことがある方は、少なくないかもしれません。

しかし、そのような廉恥心に満ちたあなたが、この文章ををまだ懲りずに読んでくださっているとすれば、申し上げたい。

「恥を捨てよ!」と命令する社会にあってなお恥を持ちつづけるくらいに思慮深く、繊細な魂を持ったあなたが、書いて情報を発信しないのは、同じような魂を持った人に対して、また魂の洗練を求める人に対して、致命的な損失です
さらに、それだけの思慮を持った人がネット上で人との繋がりを持てずに、不安なままに生きていくというのは、不当でさえあると言えるでしょう。そんな不正義は、絶対に許してはならない。
だからこそ、恥の観念を強く持っている人にこそ、私はもっと、特にインターネットでどんどん発信して、人とのつながりを広く持ってほしいと強く思っているのです。

私はそうした恥の観念を強く持っている人たちに、「恥を捨てろ」などという軽薄な、思慮を欠いた戯言は言いたくない。私が19世紀のフランスの哲学などを多少勉強して身につけたのは、せいぜい、反省の観念と、そこから勝手に引き出した恥の観念くらいのものですし、それは大事にしたい。それに、私は何より廉恥心ということに関しては人後に落ちぬつもりでいます(匿名にしているのには別の理由がありますが、本当は書かないほうがよいはずのこんな後ろ向きのことをあえて書いていることから、読み取っていただきたい!)。

あなたには恥を持っていてほしいし、寧ろ忘れないでほしいとさえ思うのです。恥を捨てた振る舞いを続ける中で恥を忘れるならそれでもよいといえばよいとはいえ、私個人の気持ちとしては、恥を捨てないでほしい。……

それでもなお、恥じつつ情報発信をしてほしいというのは、いかにも矛盾した要求に思われるかもしれませんし、なるほど矛盾してはいるのですが、先ほど述べた事情がそう言わずにはおれない状況を、そう願わずにはおれない状況を作っているのです。

とはいえ、インターネットの大海の屑の一つにも満たない私のような者の願いなど、即座に聞き入れていただけるはずもないので、何にでもくっつくという理屈というものを、多少無理をしながら、少しつけてみようと思うのです。


ネット上で情報発信をしている人は、いかにも楽しくて楽しくて仕方がないように見える。自分が好きなことについて闊達に何かを語る人はまだいい。理想的な生活を誇らしげに語る人もまだいい。
自分の属性や経歴を自慢げに見せびらかして、能力もないのにやたら教えたがる連中がいる。気取りを隠しもしない、鼻持ちならない連中がいる。権威を借りてくるのにその権威をきちんと理解できていない(理解しようとしない)、そうした意味での自らの知的不誠実に気づかない人もいる。虚偽に満ちたセンセーショナルな言説を垂れ流している人もいる。難しいものが難しいのには理由があるのに、難しいものを簡単に加工するのが一番だと思い込んで浅薄極まる啓蒙に勤しむ人もいる。中には自らの傷を誇示して陰に陽に哀れみを乞う人もいる。さらに悪いことに、そうした空虚な言葉が人を集めている。……

そんな人たちを見ると、何もやっていないのに、まるで自分が悪いことをしたかのように恥ずかしい気持ちに襲われる。あるいは、「この人たちには反省能力がないのだろうか、我が身を顧みてなんとも思わないのだろうか」と思われる。しまいには人間というのもののあまりの低さに呆れ絶望する。そうした成り行きです。

しかしここで一つ考えていただきたい。ひょっとすると、そんな風に道化じみた振る舞いをしている彼らも、自分のやっていることを恥に思っているかもしれない

当然のことですが、人の心の中は、どうしても覗くことができません。本人にとってさえ「内心」というものが不分明に止まるというのは、幾度か別の記事で触れた通りです。

人は必ず、ヤヌスのように2つの顔を持っている。……いや、今回は、本人にとっては一応明確な内心というものを想定したいのですから、互いに見合わせることのできる顔を持った怪物を想像しましょう。3つの顔を持つケルベロスか、もっと多くの首を持ったヒュドラーを想定したほうが良いかもしれません。いずれにせよ人の本心と表現は一致しない。どんなに「本心」であることを謳う記述にも、必ず異なる側面が、その記述によっては贖われることのない一面があるのです。(だからこそ、ある記述を見たら、、その背後に回り込み、首元まで視線を下げてゆく必要があるという次第です。)

誰もが向こう脛に傷を持って、しかし立派な靴下を履いて、虚勢を張っているだけかもしれない。もしかしたら本当に向こう脛に傷なんて持っていない人もいるかもしれず、あるいは傷なんか完全に癒えて、傷ついた経験なんか完全に忘れている人もいるかもしれない。しかしいずれにせよ、彼らの多くが、最初は確かに傷を持っていた。そう仮定してみてください。恐らく無理な仮定ではないはずです。であれば、恥の観念を強く持っている思慮深いあなたがすべきことは、単に靴下を履くことであって、傷跡を綺麗に治すことではないように思われるのです。

つまり、恥をひた隠しにしながら、それでも恥じていないかのようなふりをすること、それが、あなたの道を開くきっかけになるのであって、しかも他の人に対してある種の勇気や、その他の精神的価値を与えることになるかもしれないのです

恥の観念を強く持っている思慮深いあなたの真摯な言葉であれば、誰かしらが必ず耳を傾ける、価値のあるものになるはずです。是非書いていただきたいし、恥の観念を強く持つ高潔なあなたが社会的にうまくいかないというのは本当に不正義でしかないのですから、是非どんどん発信して、一定の社会的満足と成功を抱えて、上手く人生を渡ってほしいのです。


陳腐な引用をするのであれば、「恥の多い生涯」を告白した太宰治の『人間失格』があれほど愛される理由の一つには、なるほど、自分よりも低いものを安全地帯から笑っていられる心地よさ――ルクレティウス『事物の本性について』第2巻冒頭を思い出します――がありそうです。

けれども、主人公ないしは「手記」の書き手であるところの大庭葉蔵の気持ちを、食うに事欠かないのに言いようのない孤独と羞恥を感じる彼の心をわかってしまう(尤も、底抜けに明るい滅びへの感覚は多くの場合に共有しないとして)、あるいはかかる恥をわかった気になってしまう読者が後をたたないということのほうが、実質的な理由としては極めて大きいのではないでしょうか。

太宰の一人称小説は、とても端正というわけではないけれど、或る種の読者を惹き込んでやまない。それは太宰の筆の上手さによるところもあるかもしれない。とはいえそれだけ引き込まれる人間がいるということは、存外、恥の観念を持っているけれども、道化のように情報発信をしている人が多いかもしれない、と思ってみてほしいのです。これが本当であるかどうか分かりませんが、あなたには、内心で正確な恥の観念を持ったまま道化になってもらいたいと、心の底から申し上げているのです。

きっとそれは痛いことでしょう。
自分を欺くことは、非常に痛いことです。痛いというのは、それが露見した時にももちろんイタいのですが、自分の心が痛むという意味で痛いのです。心はきしんで、ずたずたになるかもしれません。演技は、無理な仕方で続けていけば必ず破綻します。社会をこうして欺いていかなければならないのか、という絶望的な思いに駆られることももちろんあるでしょう。極めて見事なかたちで、しかしとてもわかりやすく、野村美月が描いている通りです。


とはいえ。
とはいえ、というかたちで申し上げたい。

書いてみなければわからないことがある。
やってみなければわからないことがある。

私があなたと同じくらいに強く恥の観念を持っているかどうかは分かりませんし、勿論比べようもありません。同情するのはいっさい傲慢なことでしょう。
結局のところ書けてしまっているからには、私が持っている恥の観念など大したことはなかったのかもしれません。さらに言えば、今ここで述べていることが私の本心の全てだと訴えても、そうした訴えにはまるで意味がない(信じてはほしいけれども)。

私は恥をおして、自分の生活と生涯が恥に満ちたものであることを自覚し、恥じ入ったうえでなお、ある環境に促されて、その気になって毎日書くようにして、まだほんのひと月と少しでしかないけれども、それでも何かを得つつある、という実感を持つに至っているのです。
この「何か」がなんであるかはわからないけれど、やらないよりはきっとよかった。
皆さんの場合には、途中でやめたって、そこまでに費やした時間が少し無駄になるだけです。

魂が分裂すること、あるいは魂と行為の幸福な生木が裂かれることは、本当にきついことです。ある意味では大変なことです。

ですが、思慮深くきっと高潔なあなたには、未来の読者がいる

あなたの思慮深い言葉であれば、きっと求めている人がいるはずなのです。私がその一人かもしれませんし、あなたに似たような魂を持つ人が、あるいはまったく別の種類の、恥の観念からは程遠いかもしれない人が、また文学を愛好する者たちが、あなたを求めているかもしれない。あなたが本当に強い恥の観念を持っているのだとしても、あるいはそうであるからこそ、引きこもらずに、恥をおして書いてほしいとお願い申し上げるのは、こうした事情からなのです。