馬酔木の名前~若奥さんと私~

 「若奥さん」と呼ぶように言われたけれど年のころは私の母と同じぐらいではないでしょうか。大学の卒業論文が一段落し、都内の近くの和菓子屋さんでアルバイトを始めました。一九九九年のことです。豆餅と豆大福がおいしいことで有名なお店で、またそのころはNHKみんなのうた「だんご三兄弟」大ヒットの効果で串団子が飛ぶように売れていました。
 文京区の交差点にあるお店は、ショーケースでの販売と喫茶室があり、女性店長と、売り子が私を含めて三名、喫茶の厨房係兼ウエイトレスが四名、工房とお店を行き来する修行中の男子一名、職人さんが三名ぐらいだったでしょうか、わりと大きな老舗の一軒でした。店舗から路地を入ったところに、一階が工房、二階が社長の家族の住まい、三階が従業員のロッカールームとして使われている古い木造三階建てがあります。
 若奥さんは綺麗な人でしたがいつもきりきりかりかりいらいらした様子でした。旦那様である社長は夕方になると南の国の女の子のいるお店に行ってしまうとか、二階には寝たきりのお姑さんがいて介護を店員に手伝わせることがあるとか、娘さんは海外に留学中、ご長男はごくたまにお店に出てくる、などという噂でお家の事情の大変さを垣間窺うことがありました。
 しかし店員同士は仲がよく、不思議と雰囲気のいい職場でした。入ったばかりで食べ物の販売に不慣れな私もすぐに馴染むことができました。おっかない若奥さん以外には。
 三階の洗面所に、小さな花が飾られていました。雛具のような花器に、クリサンセマムかなにかのキク科の花が活けてあり、しばらくすると今度はサンシキスミレ、誰がその係をしているのだろうと思っていました。
 ある日若奥さんに「洗面所のお花素敵ですね。どなたが活けてるんですか?」ときいてみました。「私よっ。私は花が好きなのっ」つっけんどんに言います。なるほど喫茶室の中心のテーブルには大きな花器があり、贔屓のお花屋さんが定期的に新しい花を活けに来てくれます。若奥さんはお客さんに尋ねられることもあるのか、花の名前のプレートを用意させていました。
 小さなお花について言葉を交わして以来、若奥さんは嫌な人・悪い人ではないように感じ、それが伝わったのか、私への態度も苛々ばかりではなくなったように思います。「あなたの“お会計”の発音は訛ってる。お・か・い・け・い!」「近くのコンビニの店員の“いらっしゃいませ~ぇ”の言い方が気に入らない。あなたもあんな挨拶はしないようにねっ!」私はいつも笑顔で「はいっありがとうございます気をつけますっ」と答えていると、「あなたこれ持ってきなさい」と店頭の名物の豆餅をお昼休みに持たせてくれたりするようになりました。
 一番の書き入れ時である湯島天神の梅祭りが終わりました。ようやく静かになったころ、若奥さんが手に花を一枝持ってきました。「誰かこの花の名前わかる人いない?綺麗だから持ってきちゃった」そのときちょうど私は片付けの手伝いのため喫茶のほうにいました。白い小さな合弁花が房状についた樹木の枝で、私は「アセビですね」と答えました。「何言ってんの!これがアケビのはず無いでしょう」「いえ、アケビじゃなくてアセビです。ツツジ科の」「そう、ふーん」若奥さんは、アセビ…アセビ…と呟きながらコップに活けてカウンターに置き、出かけてゆきました。
 しばらくして若奥さんがどこかから帰ってきて言いました。「名前、名前なんだっけ」私はいつもどおり笑顔で元気よく答えました。「はいっ、ユウコです!」
 「あんたじゃないわよー!」と叫んだ若奥さん、大笑いの喫茶のスタッフ。見ると、若奥さんも笑っています。「あ、私じゃなくてその花でしたか。アセビです」まさか若奥さんと漫才を一幕演じることになろうとは。そのとき私は初めて若奥さんの笑顔を見たのでした。
 ほどなくして私はばたばたと静岡に帰ることになりご迷惑をかけてしまいました。申し訳なくて上京する際にお店に寄ることがありますが若奥さんはいつも留守です。逆に社長にお菓子をいただいてしまったりしました。
 二〇一五年三月、JR大塚駅近くでの歌集出版の打ち合わせのために上京し、御徒町駅で降りました。和菓子屋さんに事前にお電話をしましたが若奥さんはお留守の曜日ということで、静岡の川根茶とメッセージカードをウエイトレスさんにことづけました。「アツコさんにお渡しすればよいのですね?」昔の私ぐらいの齢の頃の、感じのいい女の子に訊かれ、ああそういえば若奥さんの名前は「あつこさん」だったな、と、喫茶室で頼んだ赤飯弁当を食べながら懐かしい店内を見回して、十六年前を思い出していました。
 梅祭りが終わって、アセビの花の咲く頃でした。
 どこの町でもあの花を見かけるといつも「あんたじゃないわよー!」の破顔一笑を思い出し、私はふふっと笑ってしまうのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?