点Pと地獄

無い豊かさは語れないということ。

この社会は多数に分類された人間に有利に働いている。多数が喜ぶコンテンツがよく売れるから販売され、多数が不満がなければ解決策として採用され、多数が問題に感じなければ、問題として取り上げられることはない。

また、知らないことは語ることができない。

例えば、たまに両親が口論していたが表向きにはなんの不満もなかったご家庭に育った人間は、それを知る機会がない限り、四六時中喧嘩し 不倫さえも目撃し 挙句暴力がこちらに飛んでくるご家庭のことは考えないだろう。
また、四六時中喧嘩し暴力がさかんに行われて不倫さえも目撃してしまったご家庭でさえ、性暴力の働かれているご家庭については考えないかもしれない。

この世の一面を見ると、「当たり前のことが一番幸せなんだ」と言いながら誰かが持っている当たり前のことを3倍も5倍も10倍も良くした当たり前を享受して、この世に地獄がないような振る舞いをする (丁寧な暮らしが出来る人間はこの世の地獄を見つめないことが本当に丁寧だと思っているのか?)

だけど、この世は地獄の割合のほうが多く、残念ながら、容易い方法で地獄がこちら側にやってくる。一通のメールだったり、隣人、学生の頃の同級生……。

考えたくないかもしれない。そういったことは。

ゆたかさについて考えるとき、相対的にこの世の地獄(ない世界)に触れないといけないが、大半の人間は享受している豊かさの相対として考える地獄はたいした地獄じゃない。命が奪われる(と思った体験)とか、生活が脅かされて生きることが難しいとか、迫害され続けるとか、そういうことは検討しない。一般的な生活を基盤として、ちょっとだけ外れたことだったり、あるいは一般的な生活ができる程度の精神活動が行われている人間の心の持ちようだったり、そういうもので、際限ないこの世の地獄から相対的に考えられた「豊さ」には触れない。それは、うけないから、想像できないから、隔絶されたそこにある地獄、隣にある地獄には誰も触れられない。

しかし、地獄にとらわれた人間はたいてい語るすべを持っていない。
技術を習得するすべがない。

私はいつも「人には人の地獄がある」と思って、耐えている。いろいろなことを。
私の内にも地獄がある。それは他人に干渉されて発生する地獄もあれば、自己が延々と紡ぐような地獄もある。
けれど、そんな自分も、くいっぱぐれの自分でさえも、見えていない地獄がある。
それが、見えていないということが、途方もなく恐ろしくて、それでも泣く事しかできなかった。

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