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お酒の中からみる世界

1人で居すぎたのだろうか。
いつしか本来必要としている形では決して人を頼れなくなり、なんというか、安直な手段に頼って生きているような気がする。自分のことを軽視しているから取れる手段や発言を次々行い、しかしながら、それが妥当な方法とすら思っている。
自分がやる行動自体にも嫌な気分が伴うが、妥当だと思いその選択をしてしまう自分にも嫌気がさし、孤独を選ぼうとしたくなる。
それがいわゆる逃げであることも知っているし、生きていく上で若干避けられぬところはあるから「安全な選択」を覚える為に耐え忍んでいるけれど、私の心身はどこまで耐えられるのだろうか?
きっと、耐性が出来るだろう。その時の私は、私たりうるのだろうか。納得して生きられているだろうか。

自分のことを他人事くらいに思ってしまう(口調にそれが出てしまう。何年も昔から指摘されている事だ)ことすら、恐らく「頼れなく」なる原因の1つだ。
別に、頼ることの必要性を感じているわけではない。
それに、嘘さえ許されるのならば、信頼関係を築くための「頼る」モーション、「好意」のモーションだってやってのけるだろう。私はそういう人間だ。
だけれども、嘘は精神的な負担になる。ついた嘘を永久に「事実」だと思って生活することも負担になるし、嘘だと自覚していれば単純に罪悪や背徳感で潰れてしまうだろう。そんな面倒なことはやっていられない。

かといって、真実を他者に告げるのも、しんどいのだ。
心のうちをさらけ出すのも精神的には負担になるのだ。だから、心の中で思ってはいるけど自分の負担にはなりえない「誰か」になる。それが無難だ。
ある時は出来る人を装ったり、出来ない人を装ったり、人間、少なからず装いをするだろう。昔からそんな感じで生きてきたし、他者にとってもまたその偽りがわたしなのだ。
おかげさまで、人とはなかなか仲良くなれない。私が気分屋で、様子見をするタチなせいもあるのだが。
そんなこんなで、本心、事実、弱味 を語らざるを得なくなる場所では大したことのない内容でも泣いてしまうような人間になった。弱い人間だ。

他人事である自分を大切にする手段はない、他人なのだから。何を思って、何を過ごすかなんて本来どうでもいい。仕方ないから一緒にいるし、話くらい聞いてやるし、近くにいるから影響は受けるものの、、、
私の「本心」を誰か知っている人はいるだろうか?

自分の事すら他人事のように扱う人間が、他者を大切にできるのだろうか。
私は、他者の痛みはわかっても、本当の意味で何か大事にしている(大事にすべき)感覚を失っている気がする。
見ないように生きすぎて、本当に見えなくなってしまった何かがたくさんある気がする。
それはとてもいけないことだ。
寂しいと思う。永遠に孤独の中で彷徨い続けるしかないこと、救いの手を唯一差し伸べられる自分が、こんな有様であることを。

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