見出し画像

のう

ぷかぷかと揺らぐ煙を見て思う。縛られたことに対する解放から得る「自由」の錯覚は危険だと。それでも人は自由を掴もうとする。それがいくら愚かな認識であろうと、私たちはそれらを手にしてみて、手のひらでころころ転がして、安心したいのだ。ゆっくりと歌をうたう。私の声は、私の「自由」になっているだろうか?

今日が毛布で泣いているシャツは脳内、赤い花がひとのうちに入る。浮かぶ動作に大きな遮断機が歩行
柔軟なアスファルト浮かぶ水滴は社会と歌う。ビニールは向こう側と行進し牛乳の色を奏でて泣きべそをかいた。塵となる。

誰が本物の私だろうか?
本物の私は、誰かの言葉を借りて喋っているのだろうか。
私の中で構成・構築された何かは本当に”正しい”のか?正しさとは何だろうか。
そんな曖昧なことを考えては、やはり、人間がそんなことを考えても仕方ないと思う。
人間の数だけの正義があって、倫理観があって、それを取り扱うには私という個体は小さすぎる。
どうしようもないのだ。
生きているというのは、とても辛いことだ。

踊る背表紙を吹く鳥の群れを横目で見て抱く

ふわふわ、けたけた
無敵のような気がする。たまに、そう思う。
私は自由に踊れるし、誰に何を発言しても良いし、また、どこへ遊びに行っても構わないのだから。
しかしながら、全てに責任という見えない、もやのようなものがついてまわる。私はそれの存在を理解しきれていない。
欠陥

眠気がわたしを眠りに誘う。
馬鹿の一つ覚えのように、付け焼刃の知識を披露してどうするのだろうか。
私はその自分の書いた文章を私のものとして認識できているのだろうか。
ねむい。何もかも、なかったことになればいい。
だけれど、それはすこし寂しい……。

みんな仲良く平和に生きてほしい。それは、別に私以外でいいのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?