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考えていたこと

最近はまんがもどきの方でかくことが多いが、比較的げんきで居続けられるようになった。
自分がすぐ疲労感に襲われることや、頭のうるささ、それを自覚して無理しなくなったおかげというのもある。

元気というのは何を指すのか。
身体的な問題で言えば、私は初夏から続いている咳があるし、はなをズビズビと言わせているので元気といえるのかは定かではない。(レントゲンも血液検査もしたので特に大掛かりな問題があるわけでもないように思う)
精神的に元気とはなんだろう。根拠すらないネガティブな考えがあまり起きないことや、頭のうるささや渦巻くネガティブな考えに振り回されないよう制御することができる部分が残っている状態だろうか。
(その解決方法は概ね寝ることになるが、室内で軽い運動をしたり、気が向いたら本を取りだして文字を読んだり、外に出てぼーっとする等、色々な気分転換方法をメモ帳に書き起こしている。)

とりあえず、毎日わけもわからない憂鬱感に付きまとわれていた過去の自分とはうって変わって、
今は制御可能なゆううつ、制御できなくても酷いそれが起きるのは一応今のところ週1回程度なので平和なものだ。
絵も、よく描けている気がする。描いてない気もする。
質は比較的上がったのかもしれない。表現したい何かの為に費やす力が残っているということだと思うから、という想像でしかないけれど。
救いを求めて描いていた時の絵よりも、好きを追求したような絵を描くようになったな、とは思う。どちらも絵には違いない

私が元気でいることに対して、嬉しい、などの好意的な表現をとってくれる・言ってくれる人がいてくれることが、私はとてもうれしい。

私は、かなしいことに、Twitterではついついネガティブな事を言いがちだ。(それはそもそも私がネガティブだからという理由はある)
心理的な距離が近ければ近いほど、かなしさは周りにうつってしまうとは思っていた。だから、自分でも気をつけないとなと時折反省はしていた。
けれど、Twitter程度の距離感ならまあ……と妥協があったり、あるいはそんなこと考えていられないくらいしんどかったりして色々言いがちだった。ごめんなさい。
かなしい時に声かけてくれる人もいて、それもありがたいことだけれど、
元気な日が続いている時に、うれしいとか、よかったとか言ってもらえるのは、すごくうれしかった。うれしいを感じられる自分にもうれしくなれる。ありがとうございます。

謝罪と感謝を経て……
ぼんやりと、より良く生きることについて考えている。
自分は無知蒙昧な人間で、そこから脱することができていない、愚かな人間の1人だ。
偶然にも人間として生まれついて、そこに理由などなく、ただただ死ぬためだけに生きている。消えたところで人類に影響があるわけでもないし、社会という歯車の中で、孤立してひとつくるくる勝手に回っている歯車。そもそも回っているのかすら怪しい。
ただ、ちょっとだけ飽きるまで、または次に憂鬱になるまでは生きてみたいと思った。良く生きてみたいと思った。
それじゃあモーターとかぜんまいを自分でつけてみたり、周りの歯車にちょっかいをかけたり、かしこい歯車になるために本を読んだりしたい。

なんせ、私が、挨拶されたり、たった1個絵文字送られたり、お礼言われたり励ましの言葉をかけられただけで嬉しくなっちゃう人間なのだから
私が誰かに声をかけて、誰かが喜んでくれるならそれも良いなあと思う。
絵も、良い絵が描けたらやはりうれしいし……。
社会的に足りてない人間でも、少しくらい良く生きてもいいだろうか。
長生きは特に望んでいないから、良く生きたい、よく生きたいと思う。無理しない程度に。

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