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1歩目(前半) 春の陽気を纏った風を背に 日本橋発つ 日本橋-板橋宿

2021年4月10日土曜日 午前11時00分ーーー

4月もまだ10日ほどだというのに新緑の季節へ片足をつっこんでしまったかのような陽気の中  僕、よもぎ嵜は日本橋に立っていた。

0.起点としての日本橋

ここからすべてが始まるのである。

東京で生まれ東京で育ち25年。だが日本橋の上に立ったのはこれが初めてである。

麒麟像を見上げ、これから始まる旅路へ思いを馳せる。

起点としての日本橋。

1604年に起点として据えられたこの地は今まで幾人の旅路を見守ってきたのだろうか。北へ中山道、西へ甲州街道、南へ東海道。時代は変わり移動の主な手段が徒歩から車・電車へ変わった今でも、ここは様々な想いが交差する場所であろう。

まあ色々なことを考えていても仕方ない。僕も往こう。

1.日本橋~板橋宿まで(道中)

国道14号。日本橋を背に交差点を渡ると、道はまっすぐ伸びていて先々まで視界が開けていた。
歩道を歩いている人にザックを背負い、ウォーキングのようなウェアを身にまとっているものは誰一人としていない。
恥ずかしいながらも、見通しのよすぎる道を歩いてゆく。ただ、両脇のビル群はアーチを作ってこれからの旅路を応援してくれているように感じた。


気分よくずんずん歩いていくと、神田駅に差し掛かる。意外に近いんだなぁ。都内の地理感覚は全然わかんない身からすると東京も新鮮なのである。


最初の見どころは神田明神。ここで旅全体と本日の安全の祈願。

神田明神はオオクニヌシ(縁結び)とスクナビコ(商売)と平将門を祭っている神社だ。
よく商売やっている人が年始のお参りに来ているイメージ。
神話の中の神と同列に平将門を祭っているのも日本の歴史の面白いところである。(神話系の話はまた別の機会にでも)

その後は中山道を歩いてゆく。都会の街道だ。なんの変哲もない。

東大の赤門を超えると中山道は北西へと曲がる。あやうく見逃してまっすぐ行くところだった。

北西へと曲がった後の道は片側1車線、歩道も人1.5人歩けるくらいの道だ。ようやく大通りじゃなくなった。歩くぞ。


この日の目標は大宮宿まで。看板的には20キロちょっと。標識は目安や目標にもなるが、その逆もしかり。諸刃の剣である。今後はメンタルVS標識という構図のバトルが見れるかもしれない。おもしれぇじゃないか。

ーーずんずんーーー

巣鴨に出た。巣鴨も初めまして。「おばあちゃんの原宿」ってよく聞くが、時間帯もあったのかJKや若いご夫婦の姿も多かった。そうなるとただの原宿じゃん。(ちがう)

以下写真の巣鴨自動通商店街からは旧中山道を歩くことになる。ようやくそれっぽくなるのである。巣鴨まではチュートリアル中のチュートリアルってところだったんだな。

逸話が残る「とげぬき地蔵尊」で手を合わせ、お隣の「洗い観音」で胃腸を念入りに洗ってきた。(そう、僕はおなかが弱いのだ

さてこの時点で13時30分だ。先を急ごう。

20分ほど歩くと板橋駅のロータリーにでた。ここが板橋宿の入口だ。


2.旅のはじめと終わりの宿場 板橋宿

板橋宿は日本橋から約2里(約7.8キロ)離れた場所に位置した。日本橋に近い方から 平尾宿-仲宿-上宿の3つの宿で構成されていた全長1.7キロの大きい宿場であった。また、実質の旅の終点としての機能も果たしていたらしい。

この旅をやるからには宿場のレポートをしないわけにはいかない。

しかし、僕の中では「中山道を歩く」=「宿場をピックアップする」ではない。なので、記事内ではぞんざいな扱いをしてしまう箇所もあるかもしれない。それはご容赦願いたい。

宿場としての板橋宿は詳しい説明は他の素晴らしい先駆者様のサイトを参考にされたい。

本格的な板橋宿の入り口。

「ただのありふれた商店街」これが率直な感想だ。

なんせ街道が整備されてから400年以上経っているのだ。

ただ、そこには確かに宿場町としての感覚が根付いていた。

それは正直なところ、感覚に委ねたところが大きいので、写真にうまく捉えられなかった。

この瓦版の裏は現在公園になっており、そこで遊ぶ子どもや商店街でお買い物をしている老若男女の憩いの場として機能していた。


板橋の地名の由来になった板橋。この小さな橋が地名になるなんてすごい。

板橋宿の中で一番の思い出は、板五米店さんだ。

築100年を超え、昨年板橋区の有形文化財になった建物で飲食及びギャラリーなど他空間を提供している。

1階はおむすびを中心とした飲食スペースになっている。

板五米店さんのサブタイトルはー旅とお結びー

今回の旅にぴったりではないか。調べていったわけでもない。これが旅の発見、出会いというやつだ。お昼は適当に済ませてしまったし、テイクアウトできるお結びセットを買った。荒川で後で食べよう。

普通の商店街の中にひときわ古い建物で目を引く為、今風にいうと”映える”お店だった。とても素敵な空間でもっとお邪魔したかったが、それはまた今度。


さて、とても美味しそうな食料も手に入れたし、ようやく旅っぽくなってきたじゃないか。長い板橋宿を歩こう。

上の写真は縁切り檜である。悪縁を断ち切ったり、離婚したいときにいいらしい。今はむしろ縁をたくさん繋ぎたいのだ。美味しい"お結び"も買っていい気分なのに結ばれもせず切られてたまるか!!写真だけ取らせていただき、先を急いだ。

板橋宿はこんな感じで終わり。また中山道を歩く。今度は蕨宿だ。

板橋宿を出てずんずん歩き志村坂上を過ぎると、江戸を出て最初の難所と呼ばれた「清水坂」がある。

写真だと傾斜を表すのが難しいが、

「この坂もまた、登りたい坂である」(某番組風)

な坂であった。結構急で、疲労度があがった膝には結構な負担になった。江戸時代の頃はどんなキツさだったのだろう。。

清水坂の手前には民家の端(というかこれ民家の土地内なのか!?)というところに庚申塔があった。

一里塚や庚申塔は見逃しやすい箇所にあって、今回の旅でもいっぱい見逃していくと思う。

ーーずんずんーー

中山道と旧中山道が合流、分岐を繰り返しながら東京都の出口までたどり着いた。

本日の目標、大宮宿までは旧中山道で10数キロ。歩いても歩いてもなかなか距離が減っていかないなあ。。

ここまでのまとめ

日本橋を出たよもぎ嵜は神田明神でお参りをして旧中山道を歩いていく。

途中で巣鴨の商店街を通って到着した板橋宿では、宿場町の面影を感じ、美味そうなお結びを購入して次なる宿、埼玉県の蕨宿へと向かうのであった。

第1歩目(後編へつづく)

余談

さて順調に思われたこの旅路、実は開始10分(神田付近)で思わぬハプニングに遭遇したのだ。

僕が目の当たりにした光景 それは…

中山道を歩く」ツアーの企画で歩いている集団の後ろ姿であった。

刹那、「しまった」と僕は思った。

ここでこの集団の後ろに取り付いたら、参加者に思われる。参加名簿にない、アラサーのわからん奴がいると分かったらいろいろと面倒なことになるな、、、

ここで僕は裏道を使い、万世橋をスルーし、昌平橋へと走る。(肉の万世の写真撮りたかった・・・)

開始10分しかも最初の旧中山道を歩かないという大失態をした。ただ、一緒のペースで後ろをついていくわけにもいくまい。これは仕方ないのだ。

ちなみにこのツアー、全三十数回の構成になっていて、各パッケージいつでも参加可能なのである。大変人気のようで、1回目の日本橋~板橋宿は参加者がたくさんいた!みなさんも参考にされたい。




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