ふかふかになって

祖母の家に少し滞在した。亡くなったのは7年前になる。大好きな祖母だった。

滞在している間に、お墓参りに行った。お供えの花にミツバチがいるのに気づく。「掃除が終わる頃に花を替えるから、それまでにどいてくれるかね〜」と呑気に話しかけていた。ふわふわと飛んでいるトンボを見て、「とんぼのめがね」を呑気に歌いながら墓の掃除をした。蝶が寄ってきたから、呑気に挨拶をした。
私の心は、なんだか空っぽだった。
でもそれは、虚しいものではなくて、何かを包むのを待っているような感じだった。なんでも受け入れそうだった。

ずっと人と話さない代わりに、自然の摂理をじっと見ていた。その法則が連綿と続く様に、ひどく安心した。
不思議な感覚がしていた。自分の違う所が、満たされる感覚だった。元気とは違う、安心というもので満たされていく。新しい心が出来たみたいで。いや、本当は、奥底に潰してあった心なのかもしれない。

自分を取り戻す、という表現がいくらか適切だろうか。といってもそもそも手元にある感覚なんてなかった。だから失った感覚もなくて。
でも、これが私なのか?という疑念が浮かんだら、全く揺るがずに、私だよと思える。
なんだこれ、と思う。

私は少し愛想が悪くなったと思う。例えば店員に対してとか。お礼は言うとしても、声は低くなって、口角はあまり上がっていない。
テンションだって低めになった。人の言葉への反応速度は緩やかになった。
今までのハイテンションの私は、なんだったのか。自分でも思った。なんだったんだ。私。

結局はわかってる。この前のカウンセリングではっきりと言った。
私は、人から攻撃されないように、自分には敵意がないと示すために、明るく振る舞っていました。と。

人が無条件に怖かった。基本的に、攻撃される前提で動いていた。
いろいろな理由がある。わかっている。今そこに向き合っている。まだ私は、たくさん踏み躙ってきたことがある。

人から少し離れて、カウンセリングを受けて、取りこぼした私の傷を少しずつ癒している、途中。変な感じがする。こんな自分、知らない。けれど、ひどく居心地が良い。

もしかして、私はとんでもなく不安定な足場に立っていたのか、と、今更思う。頑張りすぎると言われてピンと来なかったのも頷けた。頑張りすぎないとそんな足場に立っていられない。それしか知らなかった。仕方がなかった。複雑に絡みすぎて、もうそう言うしかない。

とにかく今、調子は戻ってきた、というより、新しい調子になって、なにがなんだかわからない。安心感はある。
祖母の家や実家でノコギリと斧を振り回して充実感を感じて、それを話して、相手がどんな反応をしようとも、どうでもいいくらいには、ブレない。やりたいからやる、見ててくれてありがとう、としか思わない。

多分、経過としては良好。しかし、良好を知らないから、戸惑っている。戸惑いながらも行動は変わらない。私は私の声を第一に聞いて動く。
私は一体、何を恐れていたのだろう。

明日も木を分解して癒されて、ちょっと仕事をして、祖母の家に行く準備をする。そう決めている。それだけでよかった。なんでだろう。

高揚感は特にない。ただ、心の底が耕されて、ふかふかになっている。栄養が全て浸透して、心地よい。それを、不思議な気持ちで、見ている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?