「好き」が私の手をとって、連れて行ってくれるから。

人によっては暗いと感じる内容かもしれません。ご注意ください。



最近、簡単に言えば「あ、死のう」と思って、部屋のものを捨てたりしていた。「死にたい」ではなくて「死のう」だった。確実に自分の命を仕留めてしまおうと思った。

せめて遺品整理に困らないようにするのが最後の礼儀かしら、なんて考えて、急いで物を捨てようとした。
私の捨てるものといえば大半が本と勉強に使ったノートだったので、まずはノートをと思い、中身を確認しながら捨てていった。空白の割合が多ければ誰か再利用すると思って、文字が乱雑に散っているページだけ適当に破いて捨てたりした。

そのときに自分の想いを懸命に書き綴っているノートを見つけた。たしか17歳の思春期の頃のもの。誰にも言えないことを書き殴っていた。

ノートの内容は、当時、周りの人から禁止されたり、否定されたり笑われたりした、哲学的思考とか、それに関するメモ。私の中に眠る物語。ふとした日記。「世界」、「私」という事象について。考え抜いた記録がそこにあった。
簡単に言えば、私の「好き」がそこに敷き詰められていた。

どういわれても、どうしてもやめられなかった。心から好きだった。
どうしてもどうしても、考えることをやめられなかった。
真実や本質の裾に少しだけ触れられたような、あの感覚がどうしても忘れられなくて。わかりあえなくても、共有できなくても、それでも、私と私だけの秘密として、素敵な宝箱にしまっておこうと考えて過ごした日々。
私を一番好きでいれた瞬間。それを象徴するようなノート。

そのノートを見て私は、子どもみたいにわあわあと泣いてしまった。
すごく申し訳なかった。17歳の純粋な気持ちに、必死に謝りたくなった。

こんなに好きでいたのに、今の私ったら、お金になるかとか、仕事になるかとか、そんなことばかり、ずっと、「こんなことに価値なんてないんだ」なんて考えて。「哲学だって恥ずかしいし真面目は馬鹿らしい」「真面目な文章なんて誰も読みたくない」「小難しいこと書いても笑われるだけ」というような、「好き」を踏みにじってしまって。毎日自分に罵声を浴びせてしまった。

きっと私が仕留めたかったのは、そういう、恥ずかしさに負けて好きを否定している自分だったんだろうなと、そう思った。
「胸を張って好きと言えないなら、もう死んでしまえ」と、17歳の私が、最後の切り札として突き付けてきたとさえ、思った。

そのノートを閉じて、布団に入って、やっぱりまた泣いた。
ぐずぐず泣きながら寝て、当たり前に朝がきて、気怠い私がそこにいて。
少しずつ吹っ切れていく私の存在を、少しずつ感じた。

ああ、もう自分を隠すことなんてやめようと思った。どうせ死ぬなら、好きを出し切って死んでしまいたい。笑われてもいいから、馬鹿にされたって構わないから、もう思う存分出してしまおうと思った。
そしたら私は一番、私の味方でいられて、そんな私は、何度でも立ち上がれると信じられたから。

それから、馬鹿にされるかも、ということは忘れることにして、真面目に話してみたり好きなものは好きと言うようにした。
世界は相変わらずに普通で、奇跡が起こるなんて綺麗なストーリーもなくて、誰かにとっては退屈な話かもしれないけれど。

それでも、私は今最高に清々しい。
「好き」が私に最高の世界を見せてくれることを、私は知っているから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?