センチメンタル

(※センチメンタルの意味はしばしば悲哀的な意味で使われるかと思いますが、そういう意味を含みながらも、あまりネガティブすぎない感覚をもってこの記事を書いています。それ以外の言葉が見つからなかったので、ごめんなさい。
そんな感じで目を通していただけると幸いです。)



日常のふとしたことが突然、私の記憶や思考に少しのきっかけを与えて、センチメンタルにしてくることがある。
思春期によくあると思っていたけれど、32歳になった今でもそれは頻繁に起こっている。
そして現在もそんな感じなので、この勢いでブログを書き散らそうという魂胆である。

センチメンタルだと、なにもしていないのに、世界は五感を伝って鮮烈にイメージを残そうとしてくる感じだし、私はそれに圧倒されながらも、一番、自分を自分たらしめるものがそれなんだって、実感しているんだと思う。
きっとこれを綺麗に言葉にできたら、詩人になれたのかなって思う。
私はそんなことできないんだけど。

よくよく考えてみたけれど、センチメンタルという感情は、そんなに嫌じゃないのかもしれない。むしろ失いたくないものだと思ってる。たくさん味わいたいのかもしれない。
だって、センチメンタルによって大きく揺らいだ心の、その揺れ幅にはたくさんの言葉がこれでもかと刻まれていて、ときどきそれが花束みたいに見えるから。そんなとき、あ、世界って本当はとってもいじらしくって綺麗で、涙だって綺麗な飴玉になってしまうような、そんなものなのかなって。思える瞬間が、あるから。

ずっと夢見心地でいるわけではないし、私は基本的にじめっとしているタイプだ。生きているだけで幸せだなんて、手放しで喜べる才能は持ち合わせていない。

でも、だからこそ思うことなんだと思う。
じめっとしていて、センチメンタルになるからこそ見える世界の側面を、どうしても愛してしまったんだと思う。でも私は世界のそっち側に完全に行きたいわけじゃなくって、こっち側、じめっとしてるとこから見る具合が、ちょうど心地よかったんだと思う。
私と世界との距離感はそこでいいな、ってなんとなく思えた。

最近、センチメンタルになりやすかったりする自分の、いわば「感受性の強さ」に、心理学的な側面から名前がつくようになった。その名前を手繰って、なにかひとつの所属ができたようで少し安心した。

それでも相変わらず、世界というものは刺激的でしばしば疲れることが多い。遮断して部屋にこもっていないと疲れがとれないこともある。
センチメンタルでなくても、基本的にそうなることはある。

そうやってひとりになって少し、回復の兆しとともに顔を出したりするセンチメンタルは、相変わらずの力を私に託すようだった。
長年感受性の強さに困り果てていた私の、捻り出した、生き方の最適解なのかもしれない。

布団に横になって、勢いよく更新した。薄暗い部屋で、心にだけ少し晴れ間が見える。

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