上野水香の、ボレロ。

初めて彼女のボレロを見たのは2006年の東京でした。
それまでジョルジュ・ドン、シルヴィ・ギエム、首藤康之、後藤晴雄という円熟のボレロを観ていたので、彼女のフレッシュなボレロはとても新鮮だったんですけど、振りの抑揚と緩急のメリハリ、タメのリズムと発散のダイナミズム、点在する余白が絶妙にぎこちなかったのを何故かはっきりと覚えているんです。
まるでまだベジャールのボレロを追いかけ、追いつこうともがいていて、自分のボレロを編み出す苦しみの渦中にいる、そんな印象を受けたんですよね。

しかし今日、2024年の彼女はまるで別人のように舞っていた。

2004年のドイツから数えて20年、その時間の中で上野水香というバレリーナが成長し、成長しながら身体表現を磨き、人生経験も重ねて歩んできたその道が全てそこに結実したような、まごうことなき唯一無二の、上野水香のものに昇華されたボレロだった。
その姿はまるで、人智を超えた流れを従え、神を纏って人々を鼓舞する神子。

序盤、暗闇に浮かぶ腕のしなやかな抑揚が生み出す柔らかなメロディ。
やがて周りを囲むリズムたちがぼんやりと浮かび上がり、しかし変わらぬ柔らかさで踊るメロディ。
徐々にリズムが真っ赤な円台に集まってきてメロディを囲んでいき、その中でリズムを鼓舞するメロディの動きは同時に、その会場を埋め尽くす観客の心をも鼓舞している。
会場内のすべての意識がメロディの動きによって鼓舞され、メロディの動きに昇華されて、一つの大きなうねりとなっていく。

上野水香はその中心で一人、その身体に神を纏い、手足から髪に至るまでの全てを捧げ、一心不乱に舞う。
もはやそれはバレエという事象を超え、人間の持つエネルギーを引き出し、束ね、その強さと可能性を爆発させる儀式だった。

これまで何回もボレロを観てきましたが、序盤から涙が出たのは初めてでした。
それはそのあまりの完成度の高さと、そこに日本人が到達できるのだという事実と、上野水香が過ごしてきた時間、その中で獲得したもの、成し遂げたこと、それら全ての要素が一つでも欠けていたら今ここにある世界が存在しなかったんだという事実があまりにも大きかったから。
連綿と続くボレロの最先端に自らを刻み込んだ上野水香の存在が、すごかった。

女性の踊るボレロは男性のそれと比べて柔らかく優しい印象を抱くことが多いんですけど、シルヴィ・ギエムとは明らかに異なる、しかしその到達した境地という意味ではギエムにも劣らない、優雅で繊細で力強くて唯一の、ものすごいボレロでした。


※1 畏れ多い気持ちを抱きながら、それでもこの気持ちをリアルに伝えるために敬称を省略させていただきました。上野水香さん、ごめんなさい。
※2 本来ならあの素晴らしい舞台の写真を添えたいところですが、撮影禁止であること、今でも瞼の裏にはっきり残るあの時間を文字だけの表現という枠を課して書きたかったことから、画像は使っておりません。

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