記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

「君が幸せになると、私も幸せ」──『あんハピ♪』を読む

「幸福」だとか「しあわせ」について扱う作品は結構ありますし、『あんハピ』もそういった作品のひとつでしょう。そんな中でも、この作品が扱う幸福という要素については、実践的で現実的な側面が強いという点と、この作品が日常系に分類されるような作品であるという点から、独特で良い感じのものに仕上がっているという認識を持ってるので、そういった認識、もとい読みについて書き残しておきます。半分くらい個人的なメモなので引用が多いですが悪しからず……。
(アニメ版の1話だけでも観たことがある方なら読めると思います。)


一旦、前提となる話から。
本作は「不幸な生徒達がしあわせになるための話」というあらすじに則った物語が一貫して続く作品で、もちろんそのためのアプローチはエピソードごとに異なるわけですが、それでも言ってることや根本にあるものは概ね同じだと思っています。このような『あんハピ』が持つ一貫している部分についての自分の読みを書き残しておこう、というのがこの文章です。


・始めたがりならなんとでもなるさ

この作品、「外へ出ること」へのこだわりがやたらと強いです。
一般的な(古典的な?)日常系作品と同様に『あんハピ』における教室も箱庭としての側面がそれなり以上には強いのですが、それでも安全な教室を飛び出して外へ出ます。本作のメインキャラクターは揃って不運なので、外へ出る度に色々な災難に見舞われますが、それでもやっぱり外へ出ます。
作中でも、このことに対しては疑問が投げかけられていました。

そこまでして守護しなければ課外活動も危うい生徒達をわざわざ外へ連れ出すのは何のためだ?

『あんハピ♪』漫画 64話

そして、この疑問の答えは作品の随所にちりばめられています。親切。
とはいえ、その答えは一義的ではなく、同様に本作における「外へ出ること」も一義的なものではないので、ひとつずつ扱っていくことにします。

「いつかは卒業して外へ出なければならない」というのは学園ものでお決まりのフレーズですし、それを見据えて色々学ぶことが学校の意義のひとつとされてるのでしょう。『あんハピ』においての「外へ出ること」には、こういった未来を見据えた予行演習的な側面が、まずひとつあります。アニメ11話の林間学校にて小平先生が呟いた「元より"負の業"を背負った幸福クラスの皆さんに過酷な試練を与えるのは心が痛みますが、これもあの哀れな子供たちが本当の幸せにたどり着くため──」というセリフが示唆的です。
作中エピソードで言えば、5-6巻での将来の夢について扱う話が代表的でしょうか。(漫画36話から言葉を借りると)「"演劇"という仮の体験」を用いて将来なりたいものについて振る舞い、「最大限の”己の理想”とは何であるか」を幸福クラスの生徒達に自覚してもらう、みたいな話です。

将来を見据えるにつけて重要なのは知識や経験の前に確固とした"自覚"です

『あんハピ♪』漫画 66話

そして、このエピソード冒頭での「『生きる』とは呼吸することでは無い──行動すること そう思いませんか?」[1] というセリフが示しているように、『あんハピ』は「行動すること」へのこだわりも強い作品でもあります。分かりやすいところだとアニメED曲「明日でいいから」の「祈りの言葉と 願いの言葉の違いは 行動しようってことかも」という歌詞から見いだせたり、など。
また、この歌詞と同じような読み方ができるセリフにこんなものがあります。

どんな小さな願いでも、ただ叶うことを待っていたら何も変わりません。願いが叶うように1歩前に踏み出す、それがいつか自分を幸福へと導く鍵になるはず。
(中略)
では皆さん、外へ行きましょうか。

『あんハピ♪』アニメ7話

大体は先程の歌詞と似たようなことを言ってる思います。差があるとすればセリフの最後の部分で、そこでは「行動すること」のひとつとして「外へ出ること」が示されています。すなわち、「外へ出ること」には「行動すること」という側面もあるということ。
先述したように、本作は「行動すること」へのこだわりも強い作品なので、恐らくこれは主語を入れ替えても良いのでしょう。(「行動すること」には「外へ出ること」という側面もある。)

さて、冒頭で述べたように本作が扱う幸福という要素は時々実践的に扱われます。そして、これは「外へ出ること」についても同様です。先程も挙げたアニメ11-12話での林間学校が代表的で、漫画版では後にこの林間学校の意図が語られていました。

「幸福クラスの課題である"幸福度" それに関わりの深いセロトニン合成が足りてない生徒が多いと判断しましたので──」
(中略)
「必要なのはトリプトファンを多く含む食物の接種と日の光とあとは運動だねぇ」

『あんハピ♪』漫画66話

林間学校ですので「日の光」と「運動」については解決、「トリプトファンを多く含む食物」については朝食用として生徒達が食べていたバナナによって解決、という訳だそうです。このうちの「日光」と「運動」に関しては「外へ出ること」が重要ですから、すなわち「外へ出ること」には直接的に幸福を求めるような側面もあるのだと読めます。
実際にこれが正しいのかは分かりませんが、脳科学を用いたアプローチ、すなわち実践的≒現実的な幸福へのアプローチが含まれている、という点が重要でしょう。未来を見据えていたり、科学(あるいは心理学)を用いていたりするからこそ現実的な側面が強い作品であるという認識を持ってしまいますね。

さて、先程引用した「外へ出ること」へ疑問を投げかけるセリフには、その場での回答があったのですが、そこで語られたのは「外へ出ること」の理由というよりも、「外へ出ること」を促す側である先生としてのセリフでした。

・・・私には親や子どころか血のつながった一族や親戚もいない身なのでこの表現が果たして正しいのかどうかと思いますが・・・あえていうなら──

『あんハピ♪』漫画64話

動物園の動物さんって「幸せ」だと思う?
(中略)
その答えを自信を持って言いたいんだ
人のために「ここ」にいてくれる動物さん達がみんな幸せになれるように頑張りたい!
あえていうなら──みんなのお母さんみたいな気持ちで

『あんハピ♪』漫画65話
(太字筆者)

前者が「外へ出ること」への疑問に対する小平先生のセリフ、後者がそれとは別の場面での花小泉杏のセリフです。素直に文脈やテキストを繋げて読むのが無難でしょうか。
この一連のセリフは正直よく読めなかったのですが、まず前提として「母親は子の幸福を願わずにはいられない」みたいな考え方があるのであれば、そのうえで先生にとって生徒達を外へ連れ出すことには親心的なものがある、という読み方はできるのかなと思いましたね。

兎にも角にも、『あんハピ』における「外へ出ること」にはさまざまな文脈が含まれているということです。


・青い鳥はうちにいるって?

本作には「実技幸福度」と「心理性幸福度」という造語と思われる言葉が出てきます。「実技幸福度」は単なる運の良い/悪いを表す言葉、転じて客観的な幸福度を表す言葉として使われていました。対して「心理性幸福度」は各々の主観的な幸福度を表す言葉、すなわち「心がどれだけ幸福を感じているか」[2] を表す言葉として使われていました。それぞれ現実と認知ですね。(言葉に違和感はありますが……。)作中では「心理性幸福度」が幸福クラスの生徒にとって重要であるとされており、同様に作品を通して「物事の意味や価値は受け取り方次第」みたいなことが描かれています。また、ここから転じて「現実世界は変えられないけど、自分自身(の認識)を変えることはできる」というようなことも描かれていますね。[3]

──幸福とは意識の改革です

『あんハピ♪』漫画69話

そして、一貫してポジティブな受け取り方でもって、しあわせに振る舞っているキャラクターが花小泉杏です。これはアニメ1話冒頭から示されていたことで、「私は川に落ちたけど、わんこが無事で良かった!」みたいなことを言っていましたね。「実技幸福度」は低くても「心理性幸福度」は低くない、あるいは不運だけど不幸ではない、むしろ幸せそうに見える、そんなキャラクターです。

・・・はなこさんはいつも本当に楽しそうで幸せそうでまるでこの世界全てを愛してらっしゃるかのようですもんね

『あんハピ♪』漫画53話

そして、こうした世界の捉え方はまさしく日常系作品が持つ視点のそれと同様のものでしょう。日常を相対化することで日常の中に価値を見いだすのが日常系である、というような言説はよく耳にすると思いますが、こうした日常系の捉え方も、花小泉杏の世界の捉え方も、どちらもやっていることは、いわゆる「一般的な視点」では拾い上げることが難しい意味や価値を、フラットな視点を用いることで拾い上げることでしょう。(話が逸れそうなので、この話は後ほど。)

はなこは誰にも気がつかれないよう小さなものほどいつもちゃんと見つけてくれる

『あんハピ♪』漫画60話

しかし、『あんハピ』は主に雲雀丘瑠璃を語り手として物語が進んでいくため、この花小泉杏の視点が作品の語りに用いられることはありません。なんなら、日常系にしてはモノローグが多いので、他の日常系作品と比べてもフラットな感じが薄い気もします。(先程載せた漫画60話の引用も雲雀丘瑠璃のモノローグ。)
逆に言えば、雲雀丘瑠璃が語り手になることによって、花小泉杏が持つ日常系的な視点を、さらに相対化して描くことができる、ということでもあるのでしょう。花小泉杏を客観的に見る/読むということには、日常系作品に触れる際の私たちと同様のまなざしが含まれているのかもしれません。
実際、雲雀丘瑠璃はかなり読み手に近いキャラクターとして描かれているように思えます。先述したような、日常系的な視点を客観視する視点であったり、二次元に恋しているという点であったり。そのため、だんだんと彼女が自然に笑えるようになる、という物語の流れは作り手から読み手への願いとしても読めたので、「『あんハピ』はあったかい作品だなー」と思ってた記憶がありますね。


・半分っこしようよね

この作品、言ってることはともかく、やってることは中々に王道です。幸福クラスの生徒達が背負う"負の業"が引き起こす問題に対して、各々が仲間(他者)の力を借りることで、その問題を解決することが多く[4] 、したがって本作の物語は「仲間と力を合わせて、みんなで幸せになろう」な成長物語であることが多いです。
この点に関しても花小泉杏がそれを体現している節があります。

「生きる」とは・・・?はい!わかります先生!!生きる・・・それはみんなでハッピーになること!!

『あんハピ♪』漫画30話
(太字筆者)

例によってこのセリフは花小泉杏のものですが、このセリフが示しているように彼女の価値観も『あんハピ』で描かれている「みんなで幸せになろう」な物語と同様のものです。
一般的には自身の体験や状態が自身の幸/不幸に繋がる、言わば「主観的な幸福観」を持っていると思いますが、彼女はそういった感性が薄く、逆に他者のしあわせが自身のしあわせに繋がる感性を持っているようです。いわゆる「幸せスパイラル理論値」で言われているような「あなたが幸せなら、わたしも幸せ」みたいな感性が花小泉杏にはあり、それ故にあまり主観的ではない幸福観を持っているのでしょう。あまり主観的ではないからこそフラットな視点、日常系的な視点を持っていて、あるいは自分の状態は二の次で他の誰かがハッピーならそれで良い、というような感性を持っているのだと思います。小平先生は彼女のことを「"他者の支援"の才能がありますね」と評していましたが、それもこういった幸福観によるものでしょう。
また、漫画版後半での体育祭ではこういった「みんなで幸せになろう」という考え方が幸福クラス全体に広がっていたようで、漫画版作中で言及されていた「徳」[5] というものが、恐らくこういうものなのでしょう。

弱点なんてもしわかっていたとしても彼女達は何もしないと思いますよ
・・・・・・"幸福クラス"ですから

『あんハピ♪』漫画52話

この「みんなで幸せになろう」の精神は特に漫画版最終話である69話と68話で印象的に使われていました。本作の最終話は、雲雀丘瑠璃が彼女の家族へ会いに行くために自らドイツへと飛び立つ話です。もちろん、航空券だの何だのでたくさんお金が必要ですから、みんなでヒバリちゃんのためにアルバイトをします。まさしく、仲間の力を借り(友達のために力を貸し)、自ら外へ出るという『あんハピ』らしく、また王道な物語でもある最終話です。
やっぱり『あんハピ』はあったかい作品ですね。


[1] 『あんハピ♪』漫画30話より。「我々は二回この世に生まれるのだ 一回目は存在するため二回目は生きるために」と、「エミール」(ルソー)の引用をしたうえでのセリフ。

[2] 『あんハピ♪』漫画29話より。

[3] 「外へ出ること」についての話でも挙げた、将来の夢について扱うエピソードはまさにこれで、将来なりたいもの(職業等)ではなく、将来なりたい自分を思い描き、生徒達が自身の理想像を自覚することに重きを置いている点が示唆的です。

狭山さんのお言葉通り生まれ持ってのものはありますし私は私以外にはなれません・・・でも少しずつ成長する変わる事でしたら──」

『あんハピ♪』漫画49話

[4] 例えば萩生響と江古田蓮の共助の関係。

[5] 「徳」が幸福クラス、「体」が体育クラス、「知」が勉学クラスとされていた。

「徳・体・知の調和を以って我らが天之御船学園文化祭の日を──」

『あんハピ♪』漫画33話


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?