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シメジ シミュレーションと哲学

※ ネタバレを含みます。
※ 本記事の画像の出典はすべてつくみず先生による『シメジ シミュレーション』です。著作権も当然つくみず先生に帰属します。

突然ですが、世界の捉え方には2種類あります。唯物論ゆいぶつろん唯心論ゆいしんろんです。物質を基準とする考え方と、認識を基準にする考え方の違いです。唯物論は直感的だと思います。まず物があり、次に我々がそれを認識する。きわめて自然な考え方です。対して唯心論はというと、我々が認識し、それによって物は存在するという考え方です。嘘つけと思うかもしれませんが、このアイデアは意外と強力で、唯心論のおかげでそれまで我々人類が答えることのできなかった多くの疑問に回答を提示することが可能になりました。例えば、「『いる』ってどういうことなんだろう」という疑問とか。シメジ シミュレーションはこの唯心論に準拠した作品であると考えられます。

唯心論が受け入れられない場合、それは自分が真に客観的に世界を認識できているという錯覚によるものと考えられます。我々は目や耳が受容できる情報のみを受け入れ、脳が創造する主観のみを認識します。例えるならば、脳が作り出した映画を観ているようなものです。その映画に登場しない小道具や登場人物については「存在しない」と言い切って問題ないのです。

18世紀の哲学者ジョージ・バークリーは唯心論を発展させた哲学者の一人です。シメジ シミュレーションはバークリーの哲学を基にした、あるいは少なくない影響を受けた作品であると考えられます。

存在することは知覚されることである

ジョージ・バークリー

これはバークリーの最も有名な言葉です。シメジ シミュレーションは、とりわけその4巻以降は、まさにこの「存在すること=知覚されること」という考え方に準拠していると考えられます。

存在とは何か
存在することは知覚されることである
知覚されないものは存在しない

3巻のラスト以降、世界は(というか西よもぎ市は)人々の想像した通りの形に変容します。そして認識されないものは存在しなくなりました。これは唯物論から唯心論へ移行したという捉え方ができます。それまでは西よもぎ市の外の世界は存在していて、しめじとまじめで隣町のショッピングモールに行くエピソードがありましたが、4巻では西よもぎ市の外は「無」になっていました。すなわち、3巻までは知覚に存在が先行していたため、知覚されなくてもショッピングモールは存在することができたのです。

無見日和

5巻で魚になった月島姉が言った「すべて心の…意思の問題になってしまった」という台詞は象徴的だと言えます。

このように本作は、作者の持論ではなく、実在する哲学に準拠した作品であると考えられます。そのため、哲学に関する教養を持って読むとさらに理解が深まるかもしれません。

ちなみに筆者は哲学に関しては趣味程度であって詳しいことはよくわかりません。


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