[論考]演劇のおおよその大きさ〈第一幕〉
文章を読む(あるいは読まされる)とき、その著者の「名前」は「内容」よりも重要になってしまいまうことがあります。例えば「超大物有名人が書籍を出版した!」となればその内容がどんなものであれ、ある程度売れます。もちろん「内容」も崇高で素晴らしいこともあるし、「あれ?」と肩透かしを食らう場合もあるでしょう。ただそんな感触があったとしても、そこに冠された「名前」によって「内容もきっと凄いことなんだなー、実は」と結論づけてしまうことは誰にでも(もちろん僕にも)あることです。
反対に、例えばこの文章は「浜田誠太郎」という名前はあるけど名もなき一学生が書いていますが、どんなに頑張って書こうとも「誰だこいつ知らね」と一読すらされない可能性は十分ある、というかほぼ100%そうだ、ということです。
冒頭からネガティブな感じで始まりましたが、ただそれでも、演出部として個人的に思ったことをまとめていこうと思います。ですので、崇高な議論は他の方にお任せするとして、僕は地べたに這いつくばった文章を書いてみようと思います。
さて、まず最初に、今回演出部を担当させていただく前からちょっと気がかりだったことがあります。それは「演劇を語ることばが異常に多いなあ」ということです。この「異常に」がポイントで、もちろんどんな芸術ジャンルでもそれに関する言葉はたくさんあります。ただ演劇に関するものは「多い」だけでなく、相当「氾濫している」。そして――犬飼さんと名を連ねる演出部の手前、非常に言いにくいのですが――この原因の一端は「演出家」にあるような気がするんです。
「演出家」は「上演に芸術的統一感を与える」仕事などとはよく言われますが、より細かく言うと、戯曲をどう上演するかのプランを考えて俳優に指示をする、あるいは俳優と共有する、ということでしょう。この「指示をする」ないし「共有する」というのは、要は「コミュニケーションをする」ということです。ここに難がある。
芸術的統一感や演出プランというものを一口に言うのは簡単ですが、そこにはいわく言いがたい、絶妙なニュアンスのものが含まれていることは往々にしてあるわけです。あるいは簡単そうな指示であっても、演出家と俳優の間で認識が食い違うことだってあります。それらをきちんと行き渡らすために、演出家は多くのことばを費やしたり、「独特な」比喩を多用したり、「独自の」メソッドを使って訓練したりする。まずこれが、演劇のことばが量産される理由の一つだと思います。
更に、この量産されたことばが「氾濫している」様に感じてしまうのは演出家がほぼ必然的に持ってしまう「権力性」のためだとも思います。これは別に「演出家をやる様な人は権力至上主義者だ」と糾弾したいわけではなく、構造として仕方がない部分があるということです。演出家の出した指示(ことば)に俳優は従う、というのが一般的な演劇の稽古方法であるので、「指示する」つまり「命令する」側に「権力」が生じてしまうのは当然のことだと思います。しかも、この稽古場でのことばは最初から公にされることはありません。まず公開されるのは「上演」とその演出家の「名前」だけです。「上演」が好評になるとその「名前」の価値が上がります。「名前」が十分力を持ったのちに、その演出家が語る「内容」も注目されていく。その時点ではもうどんな「内容」であっても、先に力をつけた「名前」がそれを十分保証してくれる。また「上演」→「名前」→「発言内容」の順に価値が上がるわけですが、「名前」の価値さえ上がってしまえば、「上演」の価値すらも書き換えられていくことは多分にある気がするのです。
こうして、さまざまな「名前」という保証書付きのことばがたくさん現れます。そして、そのことばたちも参照して批評家や劇評家がことばを更に増やしていきます。
この「名前」の力は、演劇に限らず他の芸術も、政治にも社会にも当然影響を及ぼしています。有名な政治家の発言は些細なことでもすぐ取り沙汰されますし。僕はこれを否定する気は全くありません。この情報過多の世界で、すべての「内容」を確認することは難しい。だからこそ、それを端的に表す「名前」というラベルを確認して、必要と思われるものだけを得ていくのは当然の経済性です。
では何が気になるのかというと、演劇においてのこの「氾濫」は非常に整理しにくく、無秩序に広がりやすいということです。これは第二幕で詳しく述べることですが、演劇は輪郭を捉える、基準を設けることがとても難しい。それ故に相矛盾することばも非常に多く、「何が的確なのか」や「どれを信じるか」みたいなことをしにくくなります。
こうなると演劇を語ることばの中で大事にされてくるのが「面白さ」です。「面白い」のは重要であるし、僕自身常にそこを求める傾向はあります。ただ「面白い」だけでもいいのかとも思うわけです。演劇のおおよその大きさを知りたい。そう思ったときに「面白さ」は少しだけ視界を曇らせる気がします。もちろん非常に的確な視線の捉えたものがすごく面白いということもある、というか結構そういうことは多いので少し語弊がありますが、「面白さ」先行で思考しないように気をつけたほうがいいかもしれないということです。
この演出ノートは、このような「演劇を語ることばの氾濫」に対する一種の抵抗です。一見、演出部なる者が演劇を語り散らし、氾濫に拍車をかけているように見えますが、実は違う点があります。それは「稽古中・本番中に書かれている」という点です。つまり演出家の「権力性」を薄めている、公にされない稽古中のことばを開いているのです。
「犬飼さんと名を連ねる演出部の手前、非常に言いにくいのですが」と頭の方で言ったのですが、当の犬飼さんは元々この「権力性」を気にしていました。そして実験的に演出ノート的なテキストを創作中に書き始めます。そして今回執筆者に僕を含めた演出部8名を加え、ノートが本番初日の現在も書かれているわけです。現時点ではこれがどの程度効果的であったのか定かではありません。しかし避けがたい「権力性」を少しでも柔らげる、新しい稽古方法の提案をしたことは確かです。
では、そのようなテキスト群に育まれた『木星のおおよその大きさ』は一体どんな演劇でしょうか、という問いを立てて第一幕を閉じます。
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