[論考]演劇のおおよその大きさ〈第二幕〉
「箱の中身はなんだろな」ゲームは、バラエティ番組のリアクション芸では定番ですし、小学生くらいの時に僕も遊んだことがあります。中の見えない箱に両側から手を入れ、触覚だけで中身を当てるゲームです。もちろんテレビ番組みたいにベビとか虫とか危ないものは入れられないけれども、三角定規とか練り消しとかを入れたりして楽しんだ記憶があります。
結論から先にいうと『木星のおおよその大きさ』(以下、『木星』)はこの「箱の中身はなんだろな」ゲームをしているんだと思います。
演劇というのは「約束事」で成り立っているとよく言われます。例えば『木星』第二場で、何もない会議室に案内した後、
小柴「すいませんね本日は。ちょっと他の会議室が空いてなかったもので、」
村松「あ、いえいえいえ。」
小柴「あのー、ですからちょっと、座った体(テイ)で、というかたちで本日はいきたいんですけれども。」
というやりとりがありますが、これは演劇の「約束事」を端的に表しています。本当は座ってないけども座っている「体」、本当は白紙だけれども書いてある「体」、本当は見えているのは黒い壁だけれども全面窓ガラスでいい景色が広がっている「体」…。「体」が先の「約束事」なわけで、それを暗黙のうちに了解して私たちは観劇したり、演じたりしていると思います。そして、それを小柴はあえて言ってしまっている点でこの演劇は暗黙の「約束事」を露わにしてしまっている。つまりメタ演劇的な、あるいは異化効果的な要素が多分にあります。そして、このメタ感はあの謎の生命体が一番体現しているように思います。突然観客に話しかけ、舞台上の状況を俯瞰で解説するわけですから。
ただ『木星』はこの「メタ」や「異化効果」では完全に説明しきれない部分がたくさんあります。例えば第一場では二間瀬という女性が、タバコを吸う小柴と戸塚の横で、メタ的に状況を解説しだすのですが、その声が小柴と戸塚に聞こえたり、聞こえなかったりする。小柴はさらっと声が聞こえたと言うし、二間瀬は全く2人に聞こえていなかったかのように話し続けたり、2人と談笑したりするのです。
第二場でも、謎の生命体がメタ的な語りを(2人には秘密という「体」で)している間、小柴と村松はなんとなく居心地悪そうに動いています。しかし完全に無視して聞こえなかった「体」をするわけでもなく、話題の一部がそのまま三人の会話に引き継がれてしまいます。
このように、本来はしっかり区別されていたり、あるいはどちらかに回収されていく「メタ」と「メタでない」次元の境界が、『木星』では曖昧に、ふわふわと行ったり来たりしていると感じます。
そもそも僕は演劇で「メタ」や「異化効果」は簡単には成立しないと思っています。なぜならその「メタ」も「異化効果」もある種の演出(約束事)の下で「演じられている」からです。そのため演劇の「メタ」はその構造を露わにして演劇そのものの形を捉えているようで、その「約束事」の外へ逃れられていないと思います。つまり「メタ演劇」はただの「演劇」の一部でしかなく、演劇の外枠にはなりえないと思います。
先程『木星』は「メタ」と「メタでない」の境界をふわふわと行ったり来たりすると言いましたが、これがまさに「箱の中身はなんだろな」だと思うんです。
「箱の中身はなんだろな」ゲームでは触覚だけを頼りに中身を探ります。視覚を中心にして進化してきた私たちにとって、これは怖いことです。「怖い」が「面白い」とも繋がっているからこそ、これがゲームとして成立しているのだと思います。
さて、このゲームを皆さんはどうやるでしょうか。まず恐る恐る箱の穴から手を入れます。箱の中で外側からじりじりと手を動かしていく。何かが手に当たると、驚いて一瞬手を引きます。その一瞬の感触から、多少触っても大丈夫だなと思い始めると、もうすこし大胆に触ってみたりします。ただ急にそれが動いたりして、またびっくりして手を大きく離したり、箱から手を出したりします。こんな風にしてちょっとずつビビりながら触り、そのおおよその大きさや形を想像して、箱の中身を当てます。
『木星』は得体の知れない「演劇」というものが入った箱に手を入れて、そのおおよその大きさを知ろうとしています。ただ、そのためには恐る恐る触ってみたり、びっくりして手を引いたりする。こうしてちょっとずつ輪郭を確かめようとしていると思うのです。
また今回上演されないことになった(上演台本には入っている)場面で次のような台詞があります。
林「でもこれもトリビアなんですけど、木星って気体でできたガス惑星なんですね。だからもし宇宙船に乗ってそこまで到達しようとしてもそこにあるのは水素とヘリウムの、分厚い雲だけで、文字通り煙(けむ)に巻かれるだけだから、着陸っていうのはそもそも最初から不可能なんですよね。」
木星(≒演劇)は気体であり、その形は判然としない。わかるのはそのおおよその大きさだけです。だから「箱の中身はなんだろな」をやったとしても、私たちに掴むことはできません。ただ気体であったとしても「触覚」的な僅かな違いはどこかにある、どこかに感じるはずです。それを見極めようと手を伸ばしたり、引いたり、撫でてみたりする。
だから第一場や第二場ではこの押し引きの揺れは比較的大きく感じます。ただ後半になるにつれてこの揺れは小さくなる。第二場で登場し異彩を放つ謎の生命体の語りは、第六場の再登場の際、かなりその周囲の人物との会話と溶け込んでいるように思います。少しだけ輪郭を捉え始めている。しかし、やはり実体は無いので、どちらかに振れて(触れて)いくしかなく、揺れは常に生じています。『木星』はこの揺れのリズムによって、ぼんやりと形作られているのです。
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