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能登半島地震  あの日、私は輪島にいた

 こんにちは、読売新聞輪島支局で記者をしている福原悠介です。私は1月1日以来、最大震度7を観測した「能登半島地震」の取材を続けています。2024年5月で発生から4か月が過ぎましたが、今でも災害の爪痕は深く残っており、被災者の皆さんも同様に心に深い傷を負っていると感じることが多くあります。このノートでは地震発生直後から数日間を振り返りながら、「読売新聞だからできたこと」を等身大でお伝えしたいと思います。


1:東京出身者、輪島に魅せられる

 最初に、簡単な自己紹介をさせてください。大学を卒業後、2019年に読売新聞に入社しました。東京都出身でずっと実家暮らしだったため、「東京からなるべく遠いところがいい」と希望し、配属は金沢支局になりました。それからは約3年半にわたって、金沢市内に住んで県内の警察や裁判を担当してきました。
 4年目の秋に初めての異動となりました。異動と言っても同じ石川県内にある「能登支局」です。読売新聞は県庁所在地にあって大人数がいる「総局」「支局」以外にも、様々な場所に「支局(ミニ支局)」や「通信部」と呼ばれる取材拠点があり、少人数もしくは1人でその地域の取材を担当します。私の場合は、「能登支局輪島駐在」として、輪島市に住みながら、能登半島の先端に位置する奥能登地域の四つの市と町を1人で担当することになりました。

 能登は県の中心部と違って不便な面もありました。けれども、能登には金沢にない不思議なお祭りや世界に誇れるような自然があり、輪島はご飯もおいしく、魚もおいしく、人々にも活気がありました。さらに、新年を迎えるにあたり、近い将来は東京本社に戻ることも念頭に、今年はどんな取材をしてどんな記事を書こうかと思いを巡らせていました。

2:「これは現実か。。。」

 1月1日午後4時頃、少し遅めの初詣に行こうと外に出ると、少し強い地震を感じました。元日は、新聞の制作をお休みする「休刊日」で、本来はのんびりできる日です。けれども、速報の記事を書く必要があるかもしれないと思い、すぐに自宅兼職場に戻り、パソコンやカメラなど取材の道具が入ったかばんを取りに2階に上がった時、最初の地震とは比べものにならないほど大きな揺れが襲ってきました。

 スマホの緊急地震速報のアラーム音が鳴り響くなか、テレビや机、棚などあらゆる家具が倒れ、建物そのものも大きくきしみました。「これはただごとではない」。パソコンやカメラの入ったかばんだけ持って屋外に逃げようと思いましたが、あまりにも揺れが大きく、廊下の左右の壁に体を打ち付けながら立っているのがやっとでした。1分以上、横揺れが続いたでしょうか。結局まともに歩けるようになったのは、揺れが収まってからでした。

 外に出るとまず、倒壊した家屋やひび割れた車道、大きく傾いた信号などが目に飛び込んできました。近くの住人たちが津波を警戒して高台に向かっているのに気付き、私も一緒に避難しました。

地震で倒壊したビル(1月1日夜、石川県輪島市で)=福原撮影

 日が暮れてから、ヘルメットをかぶるなど安全を確保した上で市街地の様子を取材しに行くと、高さ20メートル以上のビルは近くの建物を巻き込んで横倒しになり、観光名所・朝市通りは川の対岸にいても熱さを感じるほど激しい炎に包まれていました。本社や金沢支局のデスクからも様々な問い合わせが舞い込む中、写真や動画を撮影しましたが、現実とは思えない光景が目の前に広がっていました。

朝市通りで発生した火災。複数の建物が炎上し、爆発音のような音も聞こえた(1月1日午後7時21分、石川県輪島市で)=福原撮影

3:取材拠点があるからできること

 いつ、どこでどれくらいの強さの揺れがあったという地震の概要は、気象庁などからすぐに情報として発信されます。マスコミ各社もヘリコプターを飛ばして上空から街を撮影したり、定点カメラの映像を放送したりしていたので、ある程度の現地の様子は伝わります。ただ、地震発生直後の衝撃的な被害の光景や、不安を抱きながら避難する人たちの姿は、その場で取材しないと報道することはできません。

 私が現地の状況を写真や記事で伝えられたのは、たまたま前日に帰省先から戻っており、地震でケガすることなく、スマホで電話やインターネット接続ができる状況だったという、様々な偶然が重なった上でのことです。

 読売新聞は輪島市を含む全国に取材拠点を置いています。そのため、発生当日から能登半島地震による被害の大きさを知らせることができました。
 全国津々浦々に取材網を持っているというのは、いつどこで起きるか分からない事件や事故、災害に365日すぐに対応できるということでもあります。

4:「1部、もらえますか」の声

 地震の発生直後から取材を続けるなかで、被害を受けた街の風景や避難を余儀なくされた市民の様子以外にも、強く印象に残っている場面があります。それは、新聞を読む住人たちの姿です。

 1月3日、地震の被害状況などを市の担当者から聞くために市役所を訪れると、そこには避難をしてきた多くの住民がいました。決して広いとは言えないスペースに、家族が身を寄せ合うなどして混雑していました。そして、目に入る人がみんな読売新聞の号外を手にしていたことに驚きました。

 地震で道路が寸断され、印刷工場から奥能登各地に新聞を配送することは難しかったはずです。どのようにして新聞が届けられたのか。後から知った話ですが、1月2日には東京から応援で駆け付けた社会部の記者が七尾市で号外を受け取り、輪島にたどり着いて配布。さらに、金沢支局の同僚記者たちも輪島や珠洲へ、それぞれ号外を車で運び、配布をしたのだそうです。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20240104-OYT1T50153/


 その後もしばらくは、被災した販売店のスタッフさんに代わって、記者が自ら人の多く集まる市役所や避難所にまとまった部数を持ち込みました。

 私自身も1月に何度か避難所となっている学校などに新聞を届けにうかがいました。新聞の束を手にして建物の中に入ると、周りに人が集まってきて「1部もらえますか」と声をかけられます。そうして新聞を手にした人たちが、記事や写真の一つ一つを食い入るように読んでいたことを覚えています。
 災害時にリアルタイムで情報を伝えられることが特長のテレビも、地震の影響で一部地域では見られなくなり、現地には十分な情報がありませんでした。そうしたなかで、読売新聞の販売担当や記者たちからは「何としても新聞を届けるんだ」という意気込みを感じました。私自身、現地で新聞の情報を求める人の姿を目の前にして、新聞の持つ力を実感しました。

パイプいすなどでつくられた「SOS」の文字(1月2日午後1時24分、石川県珠洲市で、本社ヘリから)

5:これからも伝え続ける

 当時はただただ必死に取材をしていましたが、地震が起きてから数日を振り返ると、新聞が社会に果たす役割が大きいのだと身をもって体験した気がします。また、読売新聞の取材網や姿勢があったからこそ、できたことも多かったと感じました。
 いま被災地は復興に向かって動き出しています。読売新聞も、「輪島支局」を新設して私を含め記者2人が常駐する体制を取り、さらには、能登半島には全国各地から応援の記者が取材のために派遣されています。
 これからは、地震の発生直後とは違って、被災地の現状や住人の方々の声を全国に届けて、みんなに復興を考えてもらえるようにすることが必要です。そんな役割の一端を担えるよう、引き続き、私は現地から取材をしていきたいと考えています。
 
6月30日、7月1日には、東京・大手町にある「よみうり大手町ホール」で開催される会社説明会「よみうりアカデミー」に動画で出演させていただく予定です。みなさんには現場で感じたことを伝えられればと思っています。

 

福原悠介