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”今”を生きる


力強く発する言葉と迷い探しながらはなす言葉どちらも私


力強く張りのある声


安心感をもらえたり
間違えがない気がして、自分で深く考えなくて済む

力強く張りのある声に憧れる

・・・??そうかな?!

ちょっとモヤっと

育ってきた中で求められてきた正しさや同調性が
裏打ちされているような振る舞いだと感じる

20年前アドラー心理学とかシュタイナーとか、カールロジャースとか
心理学について興味を持って学んでいた時期がある。

自分の立ち居振る舞いに正解とか正しさを求めていた頃のこと。

正しく育つ。
正しく生きる。

当時、今の「もやっ」とから
どうやったら抜け出れるのか??

どうやったら心の底から笑って自由に生きられるのか??

そんなことを模索していた。


力強く=自信がみなぎる感じ
張りのある声=紙を見ながら喋るとかじゃなく、真っ直ぐ目をみて話せる感じ

なんか、、そういう話し方が「正解」と思い込んでるんだ。。。

やっぱり正しさとか良い人間への憧憬があるのは拭いきれない。

正しさとか良いを「しょ〜もなっ!」って見下す感覚もあるのに。
その見下す姿ですら、

良いとか、それが今の正義、、みたいな

権威を主張し、押し付けてる傲慢さを感じるんだ、、自分の中に。

ゆっくり自分の心に忠実に手繰り寄せるように話せる


ゆっくり自分の心に忠実に手繰り寄せるように話せる人好む傾向にある


プレッシャーとか視線に弱く
つい上っ面の言葉で覆い隠そうとする私

そんな自分を捨ててもう少し伸びやかに自分でいたい

弱いまんまでいいじゃん、、、って。

だから、自分への真摯さを持ち合わせた話し方ができる人を尊敬する

そうなりたいって、本心の憧憬。

覆い隠したくなるのは何だろか??


自分の存在をみてもらえなかったら寂しい??
腹の底に何も転がってなかったら??

何とかして応えたい??
表面だけのサービス精神??

何だろね、、この変な信頼のおけなさ。

私にそんなに信頼が置けないのか???



自分を信じたり
自分を認めることって

ぐるぐるぐる
何度も行ったり来たりしながら少しずつ死ぬまでやっているかも。


これが欲しい、この力をつけたい、
そう思うのと
これが要らない、この力を抜きたい、。


「これでよかったっけ??」と。

その立ち止まり巡らす時間を持つことから始めている。


そんなこんなで自分の発する言葉の力に魂を込めたい。。

そんなふうに感じた今日。


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