共有と苦について

夜風見は、ツイ廃である。
ツイ廃であるからには、Twitterを賑わせる話題の大まかな輪郭は把握しているし、如何に不毛であっても三秒くらいで内容を考えてツイートを認める。
しかし、ツイートは140文字の規定内という制約から、およそ論理立った文章を一気に書き上げるには不向きである。そんな点があるからこそ、私は少し長くなりそうな話はnoteに、また作品群の構想や思想骨格についてはブルースカイに投下されている。

ツイ廃であるからには、私はしばしばTwitterを暴動のように賑わせる話題も一通り目を通している。肯定も否定も表明しないながら、リプライに続く文章までもきっちり読むし、そこから沸いてくる感情や思慮の類いはふむふむと脳内で数度転がしてから三歩進む頃には殆どを忘れ去っている始末である。
ただ、こればかりはなんとなく自分の価値観や思考の特性とも繋がる話だ、と思いながら読んでしまうジャンルの話があるので、少しばかり書き留めてみることにした。
予め断っておくが、決してこの記事で特定の、或いはそうでなくともある層の考え方を否定するつもりはない。人には人の認識する世界や人間の傾向というものがあるのだから、どんな意見もある場所では通用力を持っていたりする。自分には合わない理論も、きっと合わないだけなのだ。間違いと言い切るのも、なんとなく憚られる。

私は、しばしばトランスジェンダーの記事を読んでは「あぁ~」と思う。が、私が妙に思考を転がしてしまう部分は、実はトランスジェンダーの社会的な扱いや個性の在り方であるとかではなく、寧ろそこから逆説的に見える性差と苦しみの螺旋にこそ思考が転がっていく。
私は、がっちりと男性ではある。心も体も男性であるし、戸籍上の登録も然りだ。ただし、恐らく出会ったひと、話したことのある人は若干理解が出来るかもしれないが、我ながらちょっとひ弱と言うか、平たく言えば「男性らしさ」みたいな概念からはなんとなく程遠い。それは意識の組み方、会話の応対のレベルから、男性的な振る舞いを数年にわたり矯正して性差の曖昧な人物像へ寄せているからでもあるのだが、同時にジェンダー的な規範が反面的によく現れる創作の裾野に身を置くにあたって適応したようなものでもある。
だからだろうか、私は実に男性的な苦しみからも、女性的な苦しみからもなんとなく遠い距離感で生きていて、翻ってそれは共感の材料が少ないことに直結していた。

よくTwitterで流れてくる話の本旨としては、「男性は女性の苦しみを知らない」という話である。私にも刺さる。或いはほんの少しだけ共感できる。満員電車の恐怖や、生理の苦しみは、確かに知識としては持っているし配慮をすべきだと考えている。しかし実体験として、また日々晒される感覚としての材料がないために、共感の域にまではどうにも辿り着けない。想像力を働かせて追体験することは出来ても、それが現実的な生々しい手触りには結びつかずに終わるのだ。それがなんとも歯痒くて、せめて後世に人の痛覚や感情をまるまる移植する技術でも生まれたなら真っ先に味わってみたいと思うくらいには、他人の苦しみを同じ目線や立場で耐えてみるという経験が浅いと思う。そもそも可能かどうかで言えば、かなり不可能寄りの話ではあるのだろうけれど。
何も性差だけではなく、それはあらゆる観念に向けて適用しうる感覚である。家庭問題、持病、人間関係、職場、進学、どんな人間でも異なる苦しみと同居していて、結局私が出来ることはなるべく類似の経験の記憶を引っ張り出しては近似の感覚を以て「共感らしいこと」に想いを馳せることでしかない。

私には、他人が持つ苦しみとおよそ同質のものを真に知ることは出来ないし、まして一切に関してを取り除くことは出来ない。精々この身に出来る範疇では、理解をすること、出来る分だけ振る舞いに表す、そしてどうにか同じ地平で同じ苦しみを感じようと足掻く、その三点くらいだ。
きっと同じように苦しむことが出来たのならば僅かでも救いがあるのだろうが、それすら出来ないのだから、私はその無力を呪うことに日々の幾らかを注いでいる。

しかし、これは邪推かもしれないが、苦しみの渦中にいて、かつ幾らの救いの手もないような状況にある人は、しばしば根本的解決ということを諦めているように見える。それどころか、同じ苦しみの地平に引き込もうという意思までをも見出してしまうのは私だけだろうか。そんな思考順序を自身も内包しているからこそ、そう映ってしまうだけなのだと信じたい。
最大の寄り添いは、恐らく解決ではなく同質の苦しみだ、と根拠もなく私は考えている。単なる経験則の賜物ではあるのだが、その観念が確かに今の感覚を形作っている自覚がある。
だからだろうか、単に流れてきたツイートに対しても同様の苦しみに浸かることで寄り添いたい、と何かおかしなことを考えてしまうし、しかしそんなことは出来ないからこそ永遠にそれらのツイートとは分かり合えないままなのだろう、と一人勝手に落胆する。
こういうときには自身の置かれた環境が違うなら、と考えたりもするのだが、それらは今更変わりようもないので考えるだけ無駄である。それよりも、与えられた環境の素晴らしいことを感謝して、ちゃんと大切にしながら生きなければならないことも理解している。
目に付く範囲でさえ、その全ての苦しみに向けて味方にはなれない。だから、せめて誠実に生きるほかにないだろうと、そんなことを思う。誠実であることだけでは足りないことなど、なんとなく分かってはいるのに。 

人の持つ苦しみを看過できない性質な割には、人並み以上に無力な私は、そのことでしばしば悩む。特にTwitterで荒れる言論は、人の苦しみに根ざした内容と、それらへの無理解を刺すような言葉で構成されていると考えているのだが、それらは特に私を小突くように思えてやまない。
私の中にも微かばかり苦しみがあるとして、それに他人が無理解であったとしたら、私はなんと思うのだろうか。そういう思慮のなさが、私に足りないのだろうな、と思ったり。

まとまりのない文になってしまった。どうか、ご容赦を……。

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